つらつら日暮らし

4月初頭の禅林行持について

そういえば、4月3日の禅林行持といえば、「夏衆戒蝋牌草」を出すというのがあった。

 四月三日、必ず夏衆戒蝋牌草を出す。名づけて草単と称す。尚お戒蝋の次第を正さんと為すなり。式に云く、
 日本国加州  山  寺海衆の戒蝋、後の如し、
  陳如尊者
  堂頭和尚
 正元元戒
   某甲上座
   正應元戒
   某甲上座
 右、謹んで具呈す、若し誤錯有らば、各おの指揮を請う。謹んで状、
元亨四年四月三日     堂司比丘〈某甲〉拝状
 三日の粥罷自り、放参了りまで出して、之を収む。此の如く三日間、出入の後、収め置くなり。若し衆の指揮有らば、其れに随いて牌上に載定す。
    『瑩山清規』巻上「年中行事」


まず、上記の一節は何かというと、禅林の安居に於いては、「戒臘(出家得度してからの年数)」で僧侶の順番を定めたので、その順番を書いた下書き(夏衆戒蝋牌草)を4月3日に出して、安居のために集まってきた僧衆に確認してもらったのである。なお、新暦になってからは、安居の始まりは5月になっているが、旧暦では4月15からだったので、その約10日前の4月3日から5日までの間で、戒臘牌の確認を行ったのである。

ところで、この行持は、『瑩山清規』を編まれた瑩山紹瑾禅師より前から実施されていたものであった。

 四月三日の粥罷より、はじめてことをおこなふといへども、堂司、あらかじめ四月一日より、戒臘の榜を理会す。すでに四月三日の粥罷に、戒臘牓を衆寮前にかく、いはゆる前門の下間の窓外にかく。寮窓みな槤子なり。粥罷にこれをかけ、放参鐘ののち、これををさむ。三日より五日にいたるまで、これをかく。をさむる時節、かくる時節、おなじ。〈中略〉
 榜式かくのごとし。
 某国某州某山某寺、今夏、結夏海衆、戒臘如後。
  陳如尊者
  堂頭和尚
   建保元戒
    某甲上座  某甲蔵主
    某甲上座  某甲上座
   建保二戒
    某甲西堂  某甲維那
    某甲首座  某甲知客
    某甲上座  某甲浴主
   建暦元戒
    某甲直歳  某甲侍者
    某甲首座  某甲首座
    某甲化主  某甲上座
    某甲典座  某甲堂主
   建暦三戒
    某甲書記  某甲上座
    某甲西堂  某甲首座
    某甲上座  某甲上座
 右謹具呈、若有誤錯、各請指揮、謹状
  某年四月三日堂司比丘〈某甲〉謹状
 かくのごとくかく。しろきかみにかく。真書にかく、草書・隷書等をもちいず。かくるには、布線のふとさ両米粒許なるを、その紙榜頭につけてかくるなり。たとへば、簾・額のすぐならんかごとし。四月五日の放参罷に、をさめをはりぬ。
    『正法眼蔵』「安居」巻


以上の通り、道元禅師が定められた「戒臘牌」作成の作法と同じなのである。ところで、気になるのはこの戒臘牌の最初に掛かれている「陳如尊者」であろう。この方は、釈尊十大弟子の中でも「法臘第一」と呼ばれる通り、全世界の僧侶でもっとも「法臘(僧侶としての年齢)」が高いのである。

初めて首座可鉄鏡禅師を任ず、予の最初の五人得戒の上足なり、釈尊の在世の、陳如尊者の如し。
    『洞谷記』


このようにあるので、戒臘(法臘)の第一行目には、必ず「陳如尊者」を書くのだが、後代になると別の見解も出るようになった。

某国某郡某山某寺、今〈夏冬〉結衆、戒臘は後の如し、
 文殊大士
 堂頭和尚
寛文元戒
 某西堂
 某都寺
    面山瑞方禅師『洞上僧堂清規行法鈔』巻3「年分行法・結制草単法」


面山禅師は、以上の通り文殊菩薩を第一に置いている。この辺は、色々と難しい。例えば、「陳如と文殊と差別は、僧堂の本尊によるべし」(同上)とあって、僧堂の中心に置かれている聖僧に基づくという。ただし、面山禅師はこの辺、以下のようにも指摘されている。

 僧堂の本尊、陳如の寺は陳如を書き、文殊の寺は文殊大士とかくべし。仏祖正伝は、一向大乗寺の格なれば、古来より日本の諸五山、紫野、花園共に清規にかまわず、戒臘牌は文殊大士、堂頭和尚とつらぬ。
 東嶺瑾和尚云く、旧し東福寺で維那が聖僧の背にをし紙のあるを、見出したれば、陳如尊者とあるとて、陳如尊者と書べきはなんとあらふぞと問ほどに、それはさあれども、早年久く百年ばかり先きから、文殊大士と書るを改め事は無用と、云た事があると、この詞、勅規の抄に見へたり。
 唐朝に不空三蔵の奏問にて、天下の食堂の本尊を文殊と定められしこと、高僧伝の不空の章にあり。食堂は今の僧堂なり。
 安居巻に陳如尊者、堂頭和尚と列したるは、後に勅規に依て書易たるならん、いかんとなれば、永平の一派はもとより菩薩戒の血脈ばかりにて、一生声聞戒をうけぬ祖師の垂統なれば、陳如とあるべからず。文殊大士とあるべし。これのみならず、牓状等のことに付て、安居巻は、清規に昧き後人の惑乱ををし。えらんで取るべし。
    『洞上僧堂清規考訂別録』巻4「戒臘牌考訂」


上記で見た通り、「安居」巻だけではなく、『瑩山清規』も「陳如尊者」なので、書き間違いということは無いと思う。それから、陳如尊者と文殊大士を、声聞と菩薩とで区分しつつ、仏祖正伝は「一向大乗寺」なので、文殊大士であるべきという見解なのだが、面山禅師はこの見解を、『仏祖正伝大戒訣或問』「天王寺食堂の文殊〈第二十六〉」でも論じておられる。なお、根拠としている不空三蔵の一件は、確かに『宋高僧伝』巻1に出ていることである。

それから、「一向大乗寺」などについては、伝教大師最澄『山家学生式』の一節が有名である。

 凡そ仏寺の上座、大小二座を置く。
 一は一向大乗寺、文殊師利菩薩を置いて、以て上座と為す。
 二は一向小乗寺、賓頭盧和尚を置いて、以て上座と為す。
 三は大小兼行寺、文殊と賓頭盧を置いて両つながら上座なり。小乗の布薩日、賓頭盧を上座と為し、小乗の次第に坐す。大乗の布薩日、文殊を上座と為し、大乗の次第に坐す。此の次第に坐すは、此の間未だ行ぜざるなり。
    『山家学生式』


これ、以前から疑問に思っていたのは、『山家学生式』では、大乗を文殊、小乗を賓頭盧としており、陳如尊者ではないのである。よって、果たして、大乗ではないという理由で、陳如尊者を排することが出来るのだろうか?そうなると、文殊が「第一座」になるかどうかが問われる。そうなると、法蔵『梵網経菩薩戒本疏』巻1などでも文殊と賓頭盧とで、どちらが上座かという議論を紹介しているので、この辺が典拠になり、『山家学生式』などにも影響していることとなる。

ただ、やはり「陳如尊者」との関わりとなると疑問が残る。これは結局、『宋高僧伝』の不空三蔵の議論が特徴的なので、この辺が典拠なのだろうが、それでも禅林の聖僧として、陳如尊者は不適切だといえるのだろうか?

 忠曰く、僧堂の中央に設くる所の像、総じて聖僧と称す。然らば其の像、定まらず。若し大乗寺ならば、則ち文殊を安んず。小乗寺ならば則ち憍陳如、或いは賓頭盧を安んず。有る処には大迦葉を用い、復た空生を用いる。禅刹の如きは、則ち通用に拘わらず、乃ち下文を援証す。
 或るが説いて曰く、釈迦の法中、憍陳如を以て、僧宝の始と為す。蓋し陳如の臘大なること、迦葉より一夏なり。故に陳如を以て僧堂中の上座と為す。然らば唐の大暦已後より、文殊を用って上座と為す。
    『禅林象器箋』巻5「聖僧」項


まぁ、無著道忠禅師が仰るように、「禅刹の如きは、則ち通用に拘わらず」で良いのかな?という感じではある。「唐の大暦已後」というのは、先から述べている不空三蔵の上奏のことを指すから、それ以降変わったのであって、本来は「僧宝の始」たる陳如尊者こそが聖僧だと思われるのだが、果たして・・・

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