なお、『瓔珞経』であるが、正式には『菩薩瓔珞本業経』といい、『大正蔵』なら律部として巻24に収録されている。
しかし、拙僧は最初の覚え方が悪かったのか?これをついつい『菩薩本業瓔珞経』と表記してしまうのである。本人が間違っていると思っていないので、自分の校正などではすり抜けてしまい、この間違いが各所に撒き散らされることとなる。
いつも、次回こそは『瓔珞経』と略記しようと思うのだが、何を考えているのか、誤った名称を使ってしまうのである。それで、拙僧自身考えた。拙僧は何かを見て覚えたはずで、その最初に間違ったのであれば、どの辺に理由があったのだろうか?と。
で、調べてみると、こんな記述を見つけた。
『本業瓔珞経』には、十住にあり。
恵心僧都源信『往生要集』下巻
……源信僧都が『本業瓔珞経』と書いておられる。十住のことを書いていることからも、これは『瓔珞経』そのものを指していると思って間違いないため、拙僧は仄暗い心を伴いつつ安堵した。「拙僧だけじゃないじゃんか(*゜∀゜*)」。
なお、親鸞聖人はこの辺慎重だったのだろうか?基本は『瓔珞経』とのみ表記され、『顕浄土方便化身土文類 六』で1箇所「菩薩瓔珞経」と書かれているのを見つけたが、間違ってはおられない。他宗派も、ということで、道元禅師は引用文の形で『瓔珞経』とは書かれるが、それだけである。日蓮聖人も、『瓔珞経』と書くのが基本のようである。
それで、そういえば、同経典そのものはどうなんだ?とか思ったら、微妙な結果となった。まず、『大正蔵』所収本のタイトルは『菩薩瓔珞本業経』であり上下2巻・8品共通である。しかし、文中に見える語句から、以下のことを見出した。
仏、本業瓔珞、十住・十行・十回向・十地・無垢地・妙覚地、我が為に要を説く。
「集衆品第一」
あれ?「本業瓔珞」という語句が見える。意義としては、瓔珞は装飾品というくらいの意味であるから、菩薩が本来なすべき行いやそれに付随することの意味であろう。つまり、仏が菩薩の本業瓔珞として、「菩薩四十二位」を説いたのである。
是の他方仏国に於いて、亦た瓔珞本業の無二無別を説く。
同上
今度は、「瓔珞本業」になった。
彼の国の為に、賢聖の本業瓔珞の行を説く。
同上
あれ?また「本業瓔珞」である。
ここまで来て、何となく拙僧も理解してきた。「本業」と「瓔珞」を比較すると、明らかに後者の方が登場回数が多い。つまり、本経典で示されているのは「仏・菩薩の瓔珞」である。更に、冒頭部分に、仏陀の光明をもって、衆生が瓔珞としたとあるので、仏からの功徳を「瓔珞」としているのである。それでは、「本業」であるが、上記引用文の通り「本業瓔珞の行」、或いは別品には「諸仏の本業」などと出てくるのだが、仏からの功徳である瓔珞を受けつつ、菩薩や仏、賢聖が本来成すべき行いとして「本業」が提示されていることになる。本業は、功徳としての瓔珞が無ければ成り立たず、結果として瓔珞本業(或いは本業瓔珞)と、無二無別として提示されるのである。
結果として、意義としては、「瓔珞本業」も「本業瓔珞」も同じことを示すので、どっちでも良いという話になるのであろう。
無論、それで拙僧のミスが帳消しになるか?といえば、タイトルは『菩薩瓔珞本業経』なのだから、やっぱり間違いでした、という話で終わる。やれやれ・・・
#仏教