『沙石集』は全10巻ですが、この第10巻が、最後の巻になります。第10巻目は、様々な人達(出家・在家問わず)の「遁世」や「発心」、或いは「臨終」などが主題となっています。世俗を捨てて、仏道への出離を願った人々を描くことで、無住自身もまた、自ら遁世している自分のありさまを自己認識したのでしょう。今回は、「7 悪を縁として発心したる事」を見ていきます。我々は、「発心(仏道への志を発すこと)」が、善行のみを因縁とすると思っていますが、「逆縁」ということもあって、悪が発心に繋がることもあるのです。とりあえず、詳しいことは、お話をご覧ください。
京都に、貧しさの中で暮らしている者がいた。妻が夫に、「このように貧しい暮らしに、心苦しい世の中では、堪え忍ぶことが出来ません。強盗でも追い剥ぎでもして、私を養って下さい」といった。夫は「人が貧しいのは、いつものことである。どうして、そのようなことが出来ようか」というと、妻は恨みがましく泣いたりして、「そうであれば、離縁して下さい。別の人を頼って生きていきます」というので、流石に妻への想いも浅くはなかったので、内野(内裏近く)の方に行き、様子を見ていると、日が暮れてきたところで、女房(貴族に仕える女性)が女児を1人連れて通り過ぎた。ちょうど、人目が無かったので、走り寄って2人を打ち殺し、その着物を剥いで帰った。
血が付いた小袖などを、「これは、このようなことをして手に入れたのだ」と言って妻に取らせると、「そう言いましても、可哀想なことをしました」とでも言うべきなのに、満面の笑みで、とても嬉しそうな様子であった。
余りに疎ましく覚えたので、日頃の情けも妻への想いも忘れてしまい、そのまま家を出ると、もとどりを切って、或る僧房にて出家して高野山に上った。そして、後世の菩提の勤めを怠らず、相手に理由無く殺したことが罪深く思われて、その者達の後世も弔った。
或る時、同じような入道と知り合い、物語りしたところ、「御発心の因縁を聞きたいものです。誰にも言いませんので、仰って下さい。私は、都に住んでいたのですが、嘆かわしいことがありまして、住み慣れた都に留まらずに、さまよい出て、この山に上りました」といった。
「私も都にいたのですが、思いがけない縁に合って、このような入道になりました」というと、相手の入道は「どのような因縁によってこちらに参り、出会うことになったのでしょうか。詳しく仰って下さい」というと、非常に遠慮がちであったが、強いて問われたので、申したことが、「契り合っていた妻に唆され、思いがけないことをしてしまったのです」と、ありのままに語ったところ、相手の入道は、「それはいつ頃のことですか。また、その女人の小袖の色や歳はどうでしたか」と詳細を聞いてきたので、ありのままを申したところ、相手の入道は、手をはたと打って、「それでは、貴方様が私の善知識でいらっしゃいます。その女は、私が深く想っていた者でした。しかし、先立たれてしまったので、このように出家したのです。このような縁が無ければ、どうして仏道修行の難しい道に深く想いを入れることがあったでしょうか。貴方様は、しかるべき善知識です。貴方様を除いて、修行仲間はあり得ません。ともに、かの者の菩提を助け、今度の出離の道に想いを入れましょう」といい、仲間として同じく勤め行い、1人は既に、正念のまま臨終を迎え、亡くなった。
(残った入道は、先立つ入道の)看病なども懇ろにしたそうである。或る人が聞いて語った。残った1人は、今も健在という。
人が世にある時には、歎きや愁い、(死への)遅れや先立つ習いが多いけれども、人によって、全て発心することがあろうか。この者達は、賢い心掛けである。生死の長夜には、会い別れる悲しみは絶えることは無い習わしだと知りながら、愛を捨てて道に入る人が無いことは、愚かしいことだ。歎く人は、この(入道達の)あとかたを慕って、多くの苦が充満するこの世界を捨てて、快楽が退くことが無い浄土を早く願うべきである。
拙僧ヘタレ訳
これは、通常の感覚では納得出来ないことかもしれません。特に、自分が想う女性を殺された入道が、その相手に対し、「善知識」と述べる下りについては、理解すら出来ない方も多いことでしょう。これを、たった一言で「信仰」ということも出来るでしょうが、それもまた安っぽいですね。
しかし、このような説話に採り上げられることです。ここに我々は、「観無常」「厭離穢土」と、それを転じた「発心」「欣求浄土」という二つの方向性を見出していかねばなりません。
「観無常」とは、それまで自分が愛していた一切の事象が、我が物で無くなり、いくら想いを寄せても意味は無いことを痛感する事態を指します。妻から強盗を唆された入道も、想いを寄せた女性を殺された入道も、この点で一致しているわけです(無論、世俗的な観点での罪の深さは違っていますけれども、それらは捨象します)。そして、2人とも同じように発心し、高野山に上りました。そこで、後世の菩提を祈ったのです。
このような無常観によって、今生きている世界からの出離を願うこと、それが「厭離穢土」です。2人はまずそれを、住み慣れた都を離れることで実践し、いよいよこの世界そのものからも離れることを願いました。後世の菩提を祈ることとは、同時に、自ら自身が浄土へと趣きたいと願うことです。そして、その願いを実現するために、出家を選んだ状況は「発心」といえるのです。「発心」とは、「発菩提心」のことであり、菩提を得ることを願うことです。この場合には、この世界からの出離と、浄土に往生する事です。
絶対他力を信じる専修念仏の影響下では、強調されることはないですが、本来の自力での往生を願う場合、自ら自身を律して、正しく修行を行う必要がありました。そして、それは遁世した身分になればすぐに成就できるわけではありません。よって、仇であるはずの2人は、お互いを「同行善知識」であると認めました。「同行善知識」とは、同じ宗教的理想を共有し、ともに修行を行う仲間を意味しています。「善知識」とは、その導き手を指す言葉です。
仏道には、三種の善知識があるといいます。「教授・同行・外護」です。最初の教授は、先生のことです。最後の外護とは、自分の理想実現を協力してくれる人です。そして、この三種とも、中々に得がたいものです。それだからこそ、悪事を縁にはしたものの、善知識と認めた2人は、同行となり、無住の記録による限り、その理想も1人は実現されたようです。
さて、このように述べてくると、さも悪事を讃歎し、助長しているように思う人もいるかもしれません。もちろん、そのようなことを言いたいわけではありません。それは、無住も拙僧も同様です。ただ、仏道への縁、そして、発心する契機がどこにあるか分からないこと、或いは、悪事が縁の発端だとしても、最終的に絶対的な救済に到ることがあると示したかったのです。それは、世俗的な時間の感覚で割り切れることでもありません。人生を複数回に跨がっても実現されるべきことであるかもしれません。
現状の自分に起きる様々な善悪の事象を、ただ自己責任でのみ受け止める、おそらく現代の人はそのような感覚だと思います。でもそれで本当に救われるのでしょうか?自己責任で逃げ場が無くなれば、結局は追い込まれ、精神的な疲弊から、精神的な病を発することもあるでしょう。しかし、その残酷な自己責任に依らず、責任の一部を他の存在に担って貰うことが出来れば、その本人の精神的な救いにもなります。ここで「他の存在」と述べた事柄の中に、宗教やその教義などを入れることが出来ます。当記事であれば、諸行無常という教え、会者定離という教え、そして、浄土を欣求するという宗教的実践です。そういう中で、自分自身と静かに向き合い、罪を犯した者は真の意味での懺悔を、非道の害悪を経験した者は真の意味での受容を可能としていくのです。そして、これこそが宗教の役割であるはずなのです。
【参考資料】
・筑土鈴寛校訂『沙石集(上・下)』岩波文庫、1943年第1刷、1997年第3刷
・小島孝之訳注『沙石集』新編日本古典文学全集、小学館・2001年
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