つらつら日暮らし

寺院の承継と企業の承継

以前だが、このような記事に注目してみた。

検索―事業承継(ツギノジダイ)

色々とあるが、100の企業があれば、100の事業承継があるわけで、特に少子化が進む日本では、いわゆる「ファミリービジネス」とその承継についての問題点が注目される。ファミリービジネスとは、余り良くない印象の言葉に直すと「同族経営」になるようだ。それで、これらの記事に注目したのは、当然に現代の日本仏教寺院の多くが、「ファミリービジネス」になってしまっているからである。

もちろん、「本来の仏教は……」という議論があることは承知しているが、それをここでいってもどうしようもあるまい。そういう人は、どうぞ「ファミリービジネス」になっていない仏教寺院が存在しているので、そういうところの信者になれば良いと思う。それに、そういう議論をしたがる人は、拙寺にとって直接の関係が無い。当然、拙寺の運営にとって1ミリもプラスにならない。もちろん、今後、拙寺の檀信徒になっていただける「可能性」まで排除するわけではないが、希望しても無駄だと思っている。縁が無い。

それで、拙寺も所属する曹洞宗の寺院の場合、既に両祖の時代から「寺院承継」問題が発生している。寺院運営を、通常の企業のような事業として見なすと、規模からすれば明らかな中小企業(まぁ、拙寺などは明らかな「小」だけど)に該当し、やはり先の記事で話題になるような事業承継問題は、常に臨在している。

例えば、曹洞宗の歴史上、瑩山紹瑾禅師(1264~1325)やその門下で確立された輪住制は、この寺院承継の問題に対応するものであった。また、『洞谷記』に見える「新住持入院」項を見ると、弟子達の間でしっかりと話し合って決めることを求めている。だが、これらは中近世の、寺院内に於ける僧衆が多かった時代に行われたことであり、近代以降、寺院内の僧侶が減少し、代わりに寺族と呼ばれる僧侶の結婚相手も一緒に生活する「ファミリービジネス」になってくると、中近世の寺院承継方法は通用しなくなった。

そこで、1885年(明治18)に最初の『曹洞宗宗制』が制定されると、次の項目が定められたことが分かる(なお、【肉食妻帯勝手にするなよ・・・】の記事の通り、最初の『宗制』制定の段階で、曹洞宗の宗務当局[当時は曹洞宗務局]は、僧侶の結婚を公式には認めていない)。

第九号 遺書規程
 已に一寺に住職す、生前に在て滅後我れに継くべき者を撰むは、宗内の一大事なり。已に遺書規程を第九号と為す。
    『曹洞宗宗制編次綱領』、『明治十八年曹洞宗務局普達全書』、カナをかなにするなど見易く改める


要するに、この一条が、後任住職を定める規程となっている。なお、全11号からなる『宗制』の一号を占めるのであるから、寺院承継がまさに「宗内の一大事」であったことが理解出来よう。そして、具体的には以下のように定められている。

なお、「遺書規程」だが、詳しくは「曹洞宗寺院住職遺書規程」といい、以下の通り、全五章からなる。

第一章 総則(一~四条)
第二章 遺書作法(五~十一条)
第三章 遺書開見(十二~十七条)
第四章 遺書無効(十八条)
第五章 結則(十九~廿一条)


この内、今回見ておきたいのは、「第一章 総則」の「第二~四条」である。なお、「第一条」については、『宗制』で参照した書式が、『永平小清規翼』「復古卍山和尚の遺書全文」からの引用で、その経緯も気にはなるのだが、マニアックに過ぎるので、ここでは割愛する。

第二条 遺書は自己の後席撰定権を滅後に維持するの法則なりとす。故に末派寺院法地以上の住職は一般之を調整すべし。
 但、再住にして世代に列せざる者は遺書調整を許さず。
第三条 遺書は広く一宗の僧侶に就き人境資格を精選し以て之を登記すべし。単に法系に拘はり人情に泥みて滅後失撰の恥辱を遺すべからず。
第四条 遺書にして此規程に準ぜざる時は、本人自ら後席撰定権を棄却せる者とし、小本寺に於て該後席を定むるを法とす。


以上である。第二条からは、「遺書」の位置付けを、当該寺院住職が遷化後に於いて「後席撰定権」を維持するための方法だとしており、法地寺院以上は「一般」に、これを調整すべきだという。要するに、「平僧地(明治18年当時は、まだこの呼称)」以下には適用されていない。まぁ、近世江戸時代以降の「平僧地」は寺院としての位置付けも曖昧だから、「遺書」の適用外とするのは当然かもしれない。また、第二条で気になるのは、世代に列せざる者には、遺書を調整することが認められていないことである。「再住」という語句の意味については、『曹洞宗宗制』「第八号 曹洞宗寺院住職任免規程」に於いて知られる。

第十四条 凡そ曹洞宗末派寺院退隠若くは他山に移転の後、一住を隔てヽ旧寺へ再住の者は、世代の列に加へざるに依り、遺書して没後の継席を一定するの権なし。故に再住者遷化跡亦第十三条に同じ。

以上である。要するに一度当該寺院を退董し、他山の住持を経て戻ってきても、その者は「再住」として2回目の住持については歴住に数えないという。この辺は、例えば天皇の重祚とは意味合いが違っているといえよう。ついでに、この辺の曹洞宗内の伝統は、おそらく大本山永平寺二世・懐奘禅師が想定されているように思う。懐奘禅師は道元禅師晩年に永平寺を譲られ、その後、一度は三世・徹通義介禅師に譲ったが、義介禅師が退董したので、懐奘禅師が「再住」したことが知られている。だが、懐奘禅師を「四世」に数えることはない。

なお、上記一文からは、何故「再住」に後席選定権を認めないのかは、分からない。伝統的な事例からも良く分からない。永平寺四世・義演禅師は懐奘禅師に選ばれたわけではないとも側聞(「永平の席虚なるに及び、衆の請逼して、進院開堂す」、『日本洞上聯灯録』巻1「義演禅師章」)するから、その辺か?

それから、順番は前後するが、「遺書規程」第四条については、定めていなければ後任住職の選定権が無くなることを警告したものといえる。

そして、肝心なのは第三条であり、ここからは、後任住職の決定に「法系」や「人情」が取り沙汰されていた様子を知ることが出来る。要は、自分の弟子や身近な者を選びやすいということになるのだが、それを前提に選ばないで欲しいということになっている。これは、拙僧自身も激しく同意する。江戸時代の宗統復古運動について、冷静にその成果を見てみると、寺院に於ける後任住職の自由化、という側面が見えてくる。それまでは、法系が最重視されていたのを緩和したのである。

つまり、明治時代の曹洞宗は、ようやく能力重視の住職像が最重視される状況へと転換しつつあったことを示す。ただし、これも、結婚の自由化が優先的に進行した結果、実子相続へと転換(実際には、明治期から一部ではそうなったが、本当に増えたのは第二次大戦後である)し、結果としてまた「人情」が優先されて現状に至る。要は「ファミリービジネス」になったのである。その結果、先に挙げた企業の問題と関係してくることになるのだが、その問題の内容は各寺院によって大分異なるので、ここで論じ尽くすことは出来ない。

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