つらつら日暮らし

仏戒と菩薩戒について

仏と菩薩、仏教に於ける宗教的価値は当然異なっていて、その名を冠する戒の「仏戒」と「菩薩戒」についても、意味合いが違うのか?と思うのは、当然であると思うが、小生が習ってきた限りでは、同じ意味なのだという。それを前提に幾つか考えてみると、例えば道元禅師には『正法眼蔵』に於いて、両語について以下のような用例がある。

【仏戒】
・居士、あるとき仏印禅師了元和尚と相見するに、仏印さづくるに法衣・仏戒等をもてす。 「渓声山色」巻
・在家の男女、なほ仏戒を受持せんは、五条・七条・九条の袈裟を著すべし。 「伝衣」巻
・もし諸仏いまだ聴許しましまさざるには、鬚髪剃除せられず、袈裟覆体せられず、仏戒受得せられざるなり。 「出家」巻
・正法眼蔵を正伝する祖師、かならず仏戒を受持するなり。仏戒を受持せざる仏祖、あるべからざるなり。
・いま仏仏祖祖正伝するところの仏戒、ただ嵩岳嚢祖まさしく伝来し、震旦五伝して曹渓高祖にいたれり。 ともに「受戒」巻
・その余の居士・婦女等の、受袈裟・受仏戒のともがら、古今の勝躅なり。「袈裟功徳」巻


【菩薩戒】
・この梵網菩薩戒は、過去現在未来の諸仏菩薩、かならず過現当に受特しきたれり。 「洗面」巻
・しかあれば、声聞の持戒とおもへる、もし菩薩戒に比望するがごときは、声聞戒みな破戒なり。 「三十七品菩提分法」巻
・比丘戒をうけざる祖師かくのごとくあれども、この仏祖正伝菩薩戒うけざる祖師、いまだあらず、必ず受持するなり。 「受戒」巻
・震旦国には、梁の武帝、隋の煬帝、ともに袈裟を受持せり、代宗・粛宗、ともに袈裟を著し、僧家に参学し、菩薩戒を受持せり。
・のちに聖武皇帝、また袈裟を受持し、菩薩戒をうけまします。しかあればすなはち、たとひ帝位なりとも、たとひ臣下なりとも、いそぎ袈裟を受持し、菩薩戒をうくべし。 ともに「袈裟功徳」巻


75巻本と12巻本といった編集別によって、用いている戒の名称が違うのか?とも思ったが、そんな綺麗な形で区分されることはなかった。また、1つの巻に複数の名称を用いている場合もあった。よって、判断するには、道元禅師に於いては仏戒も菩薩戒も同意として用いられている可能性が高いということである。上記の引用文にもある通り、「梵網菩薩戒」について、「諸仏菩薩」が受持しているという表現があったり、「仏祖正伝菩薩戒」という表現があることからも、それは理解できよう。

菩薩戒は諸大乗経典にも見える表現であって、顕著なのは『大般涅槃経』であるが、やはり『梵網経』について見ていく必要がある。同経典では、「衆生仏戒を受くれば、即ち諸仏の位に入る」と説いている。ここには「仏戒」という表現が見えるが、更に別処には「菩薩戒」も見える。よって、1つの経典で、同じ意味として複数の表現が用いられていると見て良い。この辺から、既に伝統的に「仏戒」と「菩薩戒」については、異名同義であったのだろう。

また、禅門に於ける口訣で、栄西禅師が虚庵懐敞禅師から受けたといわれるものは「菩薩戒は禅門(または「宗門」)の一大事なり」であった。一方で道元禅師が天童如浄禅師から受けたといわれるものは「仏戒は宗門の大事なり」であった。よって、ここでも同じ内容の戒を、複数に表現していることとなる。多分に、正式な個別名称などは定められないまま、ここまで来ているので、今後も無理に定める必要はないといえる。そのためにも、受ける我々の方が、そのような意味合いについてよくよく考え、そして余計な区別を付けずに用いれば良いといえよう。

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