幽州未だ授戒を得ず
一十に出家未だ是の時ならず、二十に出家正に是の時なり。
今官壇の縁に遇うも未だ合わず、躘踵且く老沙弥と作る。
『雪峰真覚大師語録』下巻「師偈語」
これは、中国禅宗の雪峰義存禅師(822~908)の詠んだ偈である。これだけだと背景などは良く分からないが、雪峰禅師の伝記を見てみると、何を言おうとしているのか分かるのかもしれない。
九歳にして出家を請うも、怒して未だ允されざる。十二にして家君に従い蒲田の玉潤寺に遊ぶ。律師慶玄有りて持行高潔なり。遽やかに之を拝して曰く、「我が師なり」。遂に留りて童侍と為る。
十七にして落髪し、芙蓉山の恒照大師を来謁す。見て之れを奇とす。故に其の所に止まる。宣宗に至りて釈氏を中興す。其の道也た涅して緇ならず。其の身也た褎然として出づ。北して呉・楚・梁・宋・燕・秦に遊び、具足戒を幽州宝刹寺に受く。訖りて名山を巡り諸の禅宗を扣く。
『宋高僧伝』巻13「唐福州雪峯広福院義存伝」
このことから、先ほどの幽州云々の偈は、自身のことを詠んでいることが分かる。つまり、10歳までに出家しようとしたけれども、未だその時を得ることがなく、20歳の時にまさしく出家しようと思って官立の戒壇に登れるかと思ったものの、未だ縁が合わずによちよち歩きのままに年を取った沙弥になった、というくらいの意味だったのだろう。
なお、沙弥になったのは17歳の時のようであり、その後、なかなか受戒(声聞戒)を受けられなかった、という話のようだが、当方として気になったのは「宣宗に至りて釈氏を中興す」の下りであろう。この宣宗は、唐朝第19代目の皇帝であり、先代の武宗がやらかした「会昌の破仏」の後始末をして、仏教を復興した人である。
その「会昌の破仏」であるが、実態としては、843~846年までの出来事とされるが、ちょうど雪峰禅師の21歳の時であった。しかし、おそらくは既に破仏の影響があって、出家できなかったのであろう。そのため、年齢は20歳に達しているのに、出家できなかった自分のことを、「老沙弥」と呼んでいたと推定できる。
「会昌の破仏」は、それまでの教宗系仏教を壊滅させるだけの破壊が行われた。そういう観点からいうと、雪峰禅師が具足戒を受けて、各地の名山を回っていた際に、禅宗に入門したというのは、当時の状況の一端を示しているように思う。まぁ、政治と宗教について、近代に於ける信教の自由が確立される前は、政治の影響を受けるものであったが、「会昌の破仏」などは中国仏教史上の悪影響の最たるものであった。
雪峰禅師の一偈に、その様子が垣間見えた。
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