禅宗では、安名について決して超越的な「われ関せず」の態度をとっていない。寺といわず、僧といわず、俗といわず、その名前を安ずることについては、慎重に考慮し、等閑にしないということについて、永平道元禅師の安名の史実を探ってみることにする。〈中略〉
北条時頼の仏教名の道崇は、道元禅師が授けられたものであるともいわれており、〈中略〉これが史実に合致するかどうか知らないが、〈中略〉北条時頼が天下の政道に携わりつつ道を道崇する、その宗教精神を重んじて、道崇とつけられたものであろう。道は、道元の道の字を授けられたものともいわれている。
永久岳水先生『曹洞宗 法名・戒名の選び方』国書刊行会・平成15年、14~15頁
永久先生は、『正法眼蔵』の書誌学的研究や、室内学研究で知られているが、その一環として、「戒名」に関する書籍を刊行された。そこで、上記一件について、永久先生自身は、確実なものかどうかは分からないという立場を崩してはいないが、とりあえず紹介されたもののようである。
それで、ここでは北条時頼の法名・道崇が、道元禅師に付けられたものかどうか、という話なのだが、残念ながらその事実は無いと思っている。確かに、以下のような記述が残されてはいる。
最明寺殿、法名道崇、請い申せられるるに依りて、御下向し、やがて菩薩戒を受け給う。
『建撕記』
『建撕記』というのは、15世紀に成立した道元禅師伝(の通称)であるが、永久先生が「法名道崇」の記載をもって、時頼が道元禅師から戒名を貰った、という話をしているように思う。しかし、近年の研究では晩年に、建仁寺開山の蘭渓道隆禅師を師として出家した際に「覚了房道崇」を名乗ったことになっていると思う。
よって、「道崇」の名前で、「道」は道元禅師から一字を与えたという話は、伝承レベルのことかと思う。それを思うと、時頼の場合は蘭渓禅師の「道隆」から一字を取った可能性の方が解り易い。また、道元禅師が自ら名付けた弟子というのは、『永平広録』に載っている「行玄禅人」であると思う。
幼歳にして師に従うは、上古の勝躅なる歟。行玄禅人、十四歳にして僧と做る。我が衆席に随い、朝参暮請す。夙有般若力の致す所なり。齢、自ら南嶽耽道の時に符し、名、一えに青原の法諱の半ばに合す。自然の然、佳例の例なり。
『永平広録』巻8-法語13、訓読は拙僧
それで、上記一節から、行玄という人の法諱は、「青原行思大和尚」の「行」を取ったと書いているのである。然るに、拙僧的に思うのは、「玄」についてである。一節に、道元禅師は「道玄」「希玄」などと名乗ったともされる。そのために、『永平広録』の一部には、「玄和尚頌古」「玄和尚偈頌」などの名称が使われている。
つまり、「行玄」の「玄」は、道元禅師から採られたものであることを指摘したいのである。そして、上記から、道元禅師の法諱授与の基準としては、かつての禅僧・古仏から一字を貰うものだったのではないか?ということも指摘したい。
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