つらつら日暮らし

道元禅師のひそかなる発願

仏道を学ぶにあたって、自らが学び得た内容を、必ず元々自らがいた場所の人達に伝えようと願う、それが教化の始まりであり、こういう願いを懐く祖師方の力によって、現在我々が仏道を学ぶ機会が保たれていると思うと、本当に有り難くて感涙千万行。

 ときにひそかに発願す、いかにしてかわれ不肖なりといふとも、仏法の正嫡を正伝して、郷土の衆生をあはれむに、仏仏正伝の衣法を見聞せしめん。
 かのときの正信、ひそかに相資することあらば、心願むなしかるべからず。いま受持袈裟の仏子、かならず日夜に頂戴する勤修をはげむべし、実功徳なるべし。一句一偈を見聞することは、若樹・若石の因縁もあるべし。袈裟正伝の功徳は、十方に難遇ならん。
    『正法眼蔵』「伝衣」巻


これは、道元禅師が中国にて修行しておられる時、毎朝隣に坐っていた同参の僧が、開静の時に袈裟を捧げて頂上に安置し、合掌して「搭袈裟の偈」を唱えている様子をご覧になって懐かれた発願である。日本で経文からこの偈文の存在は御存知であったようだが、しかし、具体的な行法を教える師匠も無く、語る善友も無かったために、いたずらに無駄な時間のみ費やしてしまったという。

そこで、この行法を「目の当たり」に見た時に、たとえ自分がどれほどに不肖であったとしても、仏法の最も正しいところを伝えて、郷土の衆生を憐愍して、仏と仏とが正しく伝えた「衣法」を見聞して貰おうと願ったのである。そして、この時に発した誓願、正信はひそかに相次ぐことができたならば、心願も虚しくないので、受け嗣いで欲しいと願っているといえる。

このことから、やはり中国におられた時から道元禅師は、日本の世に自らが伝えたる法を弘めようと願っておられたことが理解出来る。良く、道元禅師はそういう教化の面に於いて、衆生を考慮しなかったという人もおられるが、それは永平寺入山をやたらと誇張した時に現れる説でしかない。しかも、永平寺に入ったことについても、なるほど、京都市内からはやや距離があるかもしれないが、当時の越前の位置を考えてみれば、いわゆる九州や東国などに比べて、遥かに「近畿」に近いといえる。

よって、今の関東・東京から見れば遠いかもしれないが、そんなに遠いわけでも無い、それが越前国志比庄である。だから、そこだけをもって、布教教化に熱心では無かった、と判断することはできないし、それから、「閑居」や「山居」の風景を、漢詩に詠んでおられるから、どうしてもそういう孤独感が漂うこともあるが、越前移動の後は、必ず周囲に弟子がいたわけであるし、それ以前の「閑居」の時も、深草を始めとして、自らが新しく建てる寺の場所を探していたのであろうから(瑩山紹瑾禅師伝光録』第51章参照)、それは教化をしたくないという引きこもり的独居というより、機会や場所を準備していたというべきであろう。

弁道話』には、「このほか、叢林の規範、および寺院の格式、いましめすにいとまあらず、又、草草にすべからず」とされて、叢林の規範を伝えようとしておられるが、しかし、「いとま」という語句や、「草草」という言い方にあるように、急いては事をし損じると思っておられたようである。だけれども、それは伝える意欲の喪失では無い。よって、後年『永平広録』の上堂を見ると、様々な行法を日本に伝えたのはご自分であると宣言されるに至る。

我々が今、ありがたくも様々な行持を修行させていただけているのは、このような道元禅師の御慈悲によるものだと理解しなくてはならないし、理解したならば行じなくてはならない。それは、場所を選ばない。それこそ今自分がいる場所で粛々と行えば良いのである。

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