つらつら日暮らし

無住道曉『沙石集』の紹介(12n)

前回の【(12m)】に引き続いて、無住道曉の手になる『沙石集』の紹介をしていきます。

『沙石集』は全10巻ですが、この第10巻が、最後の巻になります。第10巻目は、様々な人達(出家・在家問わず)の「遁世」や「発心」、或いは「臨終」などが主題となっています。世俗を捨てて、仏道への出離を願った人々を描くことで、無住自身もまた、自ら遁世している自分のありさまを自己認識したのでしょう。今日は、「二 吉野の執行遁世の事」を見ていきます。従来、非常に乱暴で身勝手だった吉野の金峰山寺の執行(しゅぎょう)が、心を改めて遁世し、往生しようと願った話を紹介します。

 このような道理を思って、悪縁に仇なそうと思わず、善縁への愛執を深くせず、解脱の道にこそ関わるべきである。人から罪を指摘されたらば思うべきである。人の指摘してくれることが道理である。我も、他人のことをいう。そうであれば、恥の心を持ち、咎を起こさないようにすべきである。このように思う人は、知識(仏教に深く精通していること)である。
 『荀子』にいうには、「我の悪い点をいう者は我が師である。我の善い点をいう者は、我が敵である」と。そうであれば、恨んだり嫉んだりすること無く、善知識だと思って、咎を改めるべきである。無いことをいうのは、或いは他人がいっていたことをいうのか、或いは、誤った推測であるに違いない。我もそのような推測をすることがあるから、無いことであれば、人がいっただけで咎は無いのだから、仇に思わずに、自分で正しきことを聞き直すべきである。
 我を褒める人がいても慢心してはならない。わずかな徳を褒められただけで、慢心を起こすのは、大いなる咎である。褒めている心の奥に謗りがあると知って、驕ることなく、いよいよ身を慎むべきである。このような心でいれば、褒められても謗られても、心を動揺させずに、仏道に入る志を固くするべきである。
    拙僧ヘタレ訳


良く、無常観の極みとして、相手の発した言葉から「意味」を取り除き、ただの音声とすることによって、一切の善悪から離れるなんてことも、かつての仏教者はやり遂げたらしいですが、この無住の方法はそこまで行ってはおりません。ただし、とても大切な教えであることはいうまでもないことです。

要するに、もし、自分にとって、様々な悪いことが起きたとして、その原因を相手や対象のせいにするのではなくて、とにかく自ら自身のあり方をよくよく見極めることが肝心なのです。それはつまり、自分にとって都合の悪いこと、問題が起きたとしても、それを瑩規に、何故それが自分にとって都合が悪いのかを考え、むしろそれを機に自らを変えていくのです。

よって、悪いことがあったり、悪口を言われたとしても、それをその相手のせいにするのではなく、ただただ自らの恥と思い、そして粛々と生きていく、そんなことが大切だといえましょう。

そして、多分、悪口や悪縁よりも、もっと気を付けなくてはならないのが、褒め言葉や良縁です。これは、自分にとって都合が良いので、それが起きても自らを反省しないのは勿論、調子に乗ってしまって、全能感をたっぷり味わうこともあります。しかし、それであってはならないのです。「人間万事塞翁が馬」は、この『沙石集』でも説かれるところですが、やはり、粛々と淡々と、喜怒哀楽に把われずに生きることが重要だとされます。

結局は、訳文に挙げた通り、「褒められても謗られても、心を動揺させずに、仏道に入る志を固くするべき」に尽きるのでありましょう。

【参考資料】
・筑土鈴寛校訂『沙石集(上・下)』岩波文庫、1943年第1刷、1997年第3刷
・小島孝之訳注『沙石集』新編日本古典文学全集、小学館・2001年

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