篤胤の語りの対象は、おもに各地の神官とその門人たちであった。神官は、一定の教養をそなえた地方の知識人であり、その周辺には、神官と文化的教養と宗教的信仰でつながった知的中間層の人たちが、必ず一定数いた。かれらは、経済的にも比較的恵まれ、地域における一定の地位をもつ人たち。民衆への指導力をそなえた地方名望家層といってもよい。かれらが地域の氏子を代表し、物心両面で神社とその信仰を支えるような構造が、全国にあった。
辻本雅史先生『江戸の学びと思想家たち』岩波新書・2021年、198頁
篤胤については、元々、或る程度の知識を持っていた神職などへの語りが記録されたという。『出定笑語』もまた、そういった語りの記録であったことは明らかだが、それまでの江戸時代の知識人に比べて平俗的であり、親しみやすかった。更には、篤胤の問題設定も巧みであり、人々が疑問に思って止まなかった、死後の霊魂の在処などが問題になっていた。
そして、神職の人たちからすれば、いつの間にか自分たちも「神仏習合」という形で巻き込まれていた、仏教の概要を知りたかったに違いない。その点で、篤胤は仏教批判という味付けをセットにしながら、分かりやすく伝えた、ということなのだろう。
さて、今回の記事では、未出家時の釈尊、悉多太子の出家について論じてみたいと思う。ところで、篤胤は悉多太子が父である浄飯王に対して、「恩愛集会必ず別離有り。唯だ願くは我の出家学道を聴したまへ。留難せざれ」(『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』33頁、原漢文)と願ったという。
そこで、この典拠だが、これまでの用例から、おそらくは『過去現在因果経』巻2(或いは、『仏祖統紀』巻2・『釈迦譜』なども候補ではある)であると思われる。そして、更に、浄飯王が出家を止めようとするので、「悉多がいふには、然らば我に四願がある。一つには不老、二つには無病、三つには不死、四つには不別、父もし此四願をあたへ給はゞ出家は致すまひと云」(前掲同著・33頁)などと述べたという。
この部分についても、典拠を調べたが、この部分は『釈迦譜』が該当する。そのため、どうも、篤胤は釈尊伝を語るのに対し、『因果経』のみならず、『釈迦譜』なども併用しているのだろう。なお、この「四願」の更なる出典は、『普曜経』巻3「四出観品第十一」が該当するようである。
しかし、こういう文章などから、悉多太子が浄飯王と、しっかりと遣り取りをしてから出家への道を進もうとした、という伝承があるというくらいか。
それから、出家の年齢についての議論もしている。
此時は二十五歳のときゆへ、是を二十五出家と申でござる。此出家の年も諸の経にちがひが有て、或は十九出家ともあり、又は七歳出家とも有ますが、是はみな釈迦の妄説の尻を結ばんとする種にせんとて、後世の法師どもの奸曲にいひ出した事で、実は二十五歳が出家の年にちがいなひでござる。
『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』34~35頁、漢字などは現在通用のものに改める
確かに、釈尊の出家の年齢は複数の伝承がある。近年では、南伝系の伝承なども尊重して、29歳で出家、6年修行して35歳で成道という流れになっていると思うし、或いは、禅宗などでは19歳で出家し12年修行して30歳で成道という伝承もある。また、「七歳出家」は『梵網経』の説であるが、篤胤は25歳出家を主張する。
この典拠については、『仏祖統紀』巻2が該当するようである。今回の記事では、既に『因果経』から始まって4本ほどの文献が出て来たが、結局、典拠となる文脈を複数見つけ出し、篤胤がミキシングして語るというスタイルだったようである。それから、何故25歳に拘ったかといえば、成道を30歳に設定しているからであるが、それはまた、別の機会に考えてみよう。
【参考文献】
・鷲尾順敬編『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』(東方書院・日本思想闘諍史料、昭和5[1930]年)
・宝松岩雄編『平田翁講演集』(法文館書店、大正2[1913]年)
・平田篤胤講演『出定笑語(本編4冊・附録3冊)』版本・刊記無し
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