石門獻蘊禅師、青林に在りて園頭と作る。
一日、侍立する次で、林曰く、子、今日、什麼をか作し来たる。
師曰く、菜を種え来たる。
林曰く、遍界是れ仏身なり、子、什麼の処に向かって種えん。
師曰く、金鋤、土を動ぜず、霊苗処に在りて生ず。
林、欣然たり。
『宗門統要続集』巻15
この石門獻蘊禅師だが、洞山良价禅師―青林師虔禅師―石門獻蘊禅師と続く法系に位置する人であり、中国の洞山系の人であることが分かる。それで、上記の一節は、本師である青林禅師の下で、園頭を務めていたときに行われたものであった。
まず、獻蘊禅師が青林禅師の側に立っていると、青林禅師は「そなたは、今日、何をしていたのだ?」と尋ねられた。そこで、獻蘊禅師は「菜(野菜)を植えていました」と答えた。
すると青林禅師は「この世界はすべて仏の身体である。そなたはどこに向かって菜を植えたのだ?」と尋ねられた。獻蘊禅師は、「金の鋤は土を動かすことはありません。霊苗はそのある所に依ってただ生じるものです」と述べた。その答えを聞いた青林禅師は、その鋭い答えに喜んだのであった。
意味するところは以上のような感じである。
問題は、この「菜を植える」ことが何を意味しているのか?ということであるが、ここでは善行によって功徳を積んでいることを意味している。そのため、青林禅師はこの世界はすべて仏身だが、どこで植えたのか?と尋ねたわけである。要するに、仏身であれば、もはや善行を積もうとしても意味がないのではないか?という問いになる。
そこで、獻蘊禅師の答えは、金の鋤は土を動かさないとしているが、これは、仏身を傷付けることはないという意味で、仏であることを毀損しないことを示しつつも、その上で、霊苗たる学人は、そのところにあって生えている、としたのであって、ただの日常の生活が、仏としての修行そのものであることを示したものだと把握できよう。
凡夫から仏になるという強引な展開を示すのではなく、元々仏である存在が、その仏のままに生きることを示したのが、この一節であると理解した。
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