つらつら日暮らし

禅僧は山居すべきかせざるべきか(1)

今日は3月5日、拙僧は勝手に語呂合わせで「山居(さんご)の日」だとしている。山居とは、端的に「山に居す」だが、奥深い山の中に庵を構えて修行することである。例えば、道元禅師は『永平広録』に収録された「山居の偈頌(15首)」があって、自ら山にあって修行することを、喜びとされていた。

しかし、山居は、場合によっては単独での修行になることもあるからこそ、色々な問題が起きることもある。今日は、それを鈴木正三の言葉から見ていきたい。

 一日、衆に語りて曰く、我、此前は山居ずきにて、少しの森林を見ても、庵を結び度き心有る故に、度々山居しけれども、天道に許されずして是れを遂げず。乍去今は夫れがよいに成りし也。其侭居たらば能き仏法者に成り、打上りて錯を知らざるべし。此前は山居をよしと思ひしが、今は悪しと思ふは、修行少し上りたると思ふ也。今思ふに山居を好むは、異風ずきのだてな心也。在家にて坪を拵へ座敷を飾ると一つ心也。
 時に或人云、此比去る処に遁世者有り、誠に彼等も異風に見えたり、乍去理を説く事明なり。
 師聞て曰、云ひ習へば如何程の事も云ふ物也。今時の仏法者理屈に落ちて、是と思ふ諸人も、是れを貴き事に思つて、此人を貴ぶ也。誠に理屈程用に立たぬ物無し、却て大なる怨と成る物也。我も若き時、此に錯りたる事有り、必ず理屈に落ちめさるヽな、と也。
    『驢鞍橋』上-40


以前から度々、曹洞宗の祖師方が独居修行を禁止した旨を指摘したことがある。それは、おそらく他者とのふれ合いという行為自体に、一定の意味を見出していた、祖師方の箴言であろうと思う。よって、自分独りで山に籠もっても自己満足で終わり、師から教わることもなく、衆生を導くこともなく、そのような者は、仏者としては認められないのである。

したがって、独りで籠もる修行者を鈴木正三は、「良い仏法者になったつもりでのぼせ上がる」者だと批判した。

さらに、正三が批判する「伊達な心意気」にも注意したい。どうしても、仏道修行が一定のブームになったと思う人は、「自分たちは早くこれに眼を付けていた」といわんばかりに、自らの行いを誇示しようとし、更には「格好付ける」こともあるが、それらは、まさに座敷の飾り物を飾る人であり、「心に余計な虚飾」を施しているに過ぎない。他人と違うことをしていると、それが寂しいのか、他人に自慢しようとしますが、それは意味のないことだ。「群を抜けては益無し」(『弁道法』)という言葉もある。

そして、こういう自称遁世者は、それっぽいことをいって周囲の人を騙そうとする。それもまた、批判対象だ。結局、それっぽいことをいうのは、他人と違うことをしているから、他人と違う世界が見えると誇示していることとなる。禅とは、そのような特殊事例を求める道ではないと思われ、この意味で、「違う」と誇示する人は、理屈に落ちているという正三の指摘はまさに問題を言い当てているといえる。

なお、自分1人で修行するのは良くないにせよ、一方で、集団的な考え方や、社会に心惹かれるのも良くはない。いわば、身体は集団で、心は孤独に、というのが正しい修行法なのである。また、「理屈に落ちる」ことへの批判は、情報過多社会である現状だからこそ、その射程は長い。拙僧なども、いつも正三のこの教えを肝に銘じて、理屈倒れだけはしないようにと心懸けている。結局、理屈が問題なのではない。己自身が、如何に仏道に親しんでいるかだけが問われているのだ。

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