現在、福井県永平寺町に所在する永平寺は、元々吉祥山大仏寺(『永平広録』巻2冒頭参照)と呼称され、その後改名された。
大仏寺を改めて永平寺と称する上堂〈寛元四年丙午六月十五日〉。〈中略〉良久して云く、天上天下当処永平。
『永平広録』巻2-177上堂
このように、寛元4年(1246)6月15日に改名されたことが分かる。ただし、道元禅師が何に由来して「永平寺」と名付けられたのか、ご自身の御著作・御提唱などからは判明していない。しかし、永平寺5世・義雲禅師がご見解を示されている。
夫れ、永平とは仏法東漸の暦号にして、扶桑創建の祖蹤なり。
「永平禅寺鐘銘并序」、『義雲和尚語録』所収
以上から、義雲禅師は「永平」を、仏法東漸の暦号(元号)であると明示されている。おそらくは、伝承などがあったのだろう。それで、実は「永平」については、中国で3度ほど元号になっている(現状、日本での採用例は無い)。以下の通りである。
①後漢 明帝 58~75年
②西晋 恵帝 291年
③北魏(北朝) 宣武帝 508~512年
先ほど挙げた義雲禅師が仰る「仏法東漸」とは、①の状況を指しており、道元禅師ご自身も以下の通り指摘されている。
後漢の孝明皇帝永平年中よりこのかた、西天より東地に来到する僧侶、くびすをつぎてたえず。
『正法眼蔵』「伝衣」巻
つまり、後漢の永平年間に仏法が到来して以降の様子を、西天(インド)から、東地(中国)へと来る僧侶は、絶えないほどであったとされた。転ずれば、起源を「永平年中」にしているため、「仏法東漸」という様子と一致しているのである。
ところで、他の「永平」で注目すべき事象があるのかな?と思って見てみると、以下の一節を見出した。
永平元年、詔して、中天竺国勒那摩提、太極殿に於いて経を訳す。北天竺国菩提流支、紫極殿に於いて経を訳す。帝、親しく筆受に預かる。
『仏祖統紀』巻38「法運通塞志第十七之五」
こちらは、「北魏」の永平の話である。この菩提流支は達磨尊者を毒殺したという伝承もあり、道元禅師『正法眼蔵』「渓声山色」巻などに名前が見えるが、その人の事績は永平年間に見えたりするので、色々とあるなぁ、という話であった。
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