それで、受戒すれば、次の問題は持戒となるのだが、それについて徐々に「持戒者」としての境涯が深まる様子を指摘している。よって、正確には「四種持戒」である。
又復た更に四種持戒有り。何等をか四と為すや。
一には希持戒、
二には半持戒、
三には悔持戒、
四には合持戒なり。
彼の優婆塞、句海を学ぶに於いて次第に漸取す。初め三帰を取りて優婆塞と作る。彼の人、心を修め、復た久時に於いて善く観察し已んぬ。一学句を取りて、彼の句を学ぶに於いて、堅持して缺けず、穿たず、孔かず。
『正法念処経』巻44「観天品之二十三」
まずは、「四種持戒」があるというが、上記の通り初めは「三帰」を受けて優婆塞(在家信者)になるという話だけが見られる。ただし、その者が学びの中で、「堅持して缺けず、穿たず、孔かず」とあるため、いわゆる戒に傷を付けないという話になっているのだろう。それは続く文章で、更に詳しく説明される。
何ものか缺けざるや、何ものか穿たざるや、何ものか孔かずや。
彼の缺けざるとは、乃至、命尽まで、受持して捨てず、一念の破戒の心を起こさず、他の作者に於いて、心、随喜せず、他人の作を遮りて、或いは他人をして法中に安住せしむ。故に缺けずと名づく。
彼の穿たざるとは、彼の受ける所の一学句戒の、乃ち後時に於いて彼の学句を捨てて、次に後時に於いて復た更に摂取す、数しば捨てて数しば取るが如し。是れを穿つと名づくるが如し。彼の人、是の学句を穿つを離れれば、是れ持の如し。
何ものか孔かざるや。云何が孔と為すや。於此の学句に於いて、初め清浄心にて、知識の辺に取り、取り已りて後時、其の心、則ち悔なり、護持すること能わず、心に疑惑生ず。彼の疑心を牽き、心濁んで而ち行く、多思の行に非ず。彼の人、後時に悔火に焼かるる所なり、是の如く焼き已りて、則ち学句を捨てる。是の如く捨て已りて、更に復た取らず、此れを名づけて孔と為す。若し人、作さざるに是の如く住するは、則ち孔かずと名づく。
同上
この部分だけでも、結構な解説を要するので、とりあえず切っておく。続きの文章は、また次の記事にしておくが、上記の一節、何を言っているのかを解説しておきたい。
先に挙げた通り、戒に傷を付けないことについて、「堅持して缺けず、穿たず、孔かず」という説明があったのだが、この部分を詳しく論じたのが、上記の一節である。
「缺(欠)けず」については、一度受ければ、当人の命が終わるまで、受持して捨てないことをいう。それは、一念たりとも破戒の心を起こさず、また、破戒しようとする他人には随わず、他人が悪事をなそうとすることを止め、むしろ、法中に安住させようとするという。これが「缺けず」である。まさに、自利利他としての持戒の様子が示されている。
続く「穿たざる」だが、意味としては傷を付けようとしない、という意味で採りたい。そこで、一度受けて学んだ戒について、後にそれを一度捨てて、また受けるということを繰り返すことを「穿つ」という。ただし、それをしなければ、「穿たず」という。
最後の「孔かず」だが、意味としては、穴を空けないということになる。それで、意味としては清浄心をもって、指導者に近づき、戒を受けたが、後にはそれを悔やみ、疑いをいだき、結果として戒を捨てて、その後受けない場合、「孔ける」という。そのようなことをしなければ、「孔かず」となる。
まずは、上記の通り、「持戒」の基本について説示されたわけである。
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