つらつら日暮らし

『浄土十疑論』に見える菩薩戒の意義について

何となく、色々と文献を読んでいたが、興味深い一節があったので、学んでみたい。

是の故に瓔珞経に云わく、始め具縛の凡夫より、未だ三宝を識らず、善悪の因と之の果とを知らざるに、初めて菩提心を発すは、信を以て本と為し、仏家に住在し、戒を以て本と為す。菩薩戒を受けて、身身に相続し、戒行闕かさずして一劫・二劫・三劫を経て、始めて初発心住に至る。
    『浄土十疑論』「第五疑」


ということで、『浄土十疑論』である。『大正蔵』などでは、天台智顗の著作となっているが、既に先行研究で、それは否定されている。むしろ、単純に中国浄土教の文献として見るべきで、特にこの場合は自力・他力の問題を扱っている文脈である。それで、上記は自力の文脈である。

自力なので、上記の通り『菩薩瓔珞本業経』から引用して、菩薩戒を持ち、そこから菩提心に至る状況を記している。ところで、上記の文章は、「取意」というような略し方をしている。原文は以下の通りである。

 仏子よ、発心住とは是の人、始め具縛の凡夫より、未だ三宝の聖人を識らず、未だ好悪の因と之の果を以て識らず、一切の不識不解不知なり。
 仏子よ、不識の凡夫地より始まるより、仏に値うて菩薩の教法中、一念の信を起こせば、便ち発菩提心なり。是の人、爾の時、住前なり、信想菩薩と名づけ、亦た仮名菩薩と名づけ、亦た名字菩薩と名づく。
 其の人、略して十心を行ず、いわゆる信心、進心、念心、慧心、定心、戒心、回向心、護法心、捨心、願心なり。復た十心を行ずるとは、いわゆる十善法、五戒、八戒、十戒、六波羅蜜戒なり。
 是の人、復た十善を行じて、若しくは一劫・二劫・三劫して、十信を修すれば、六天の果報を受く。
    『菩薩瓔珞本業経』巻下「釈義品第四」


・・・あれ?「菩薩戒」の話はどこいった?あ、しかもこの部分は、【「六波羅蜜戒」って何だ?】で引用したことがある。それで、修行を進める中で、菩薩の教法の中で、修行の進展を論じるに当たり、十心を挙げており、その中に「戒心」がある。

よって、その「戒心」を行ずるとして、具体的に「十善法、五戒、八戒、十戒、六波羅蜜戒」としているのだが、『浄土十疑論』のように「菩薩戒」と書いてあるわけでは無い。そうなると、以前の記事では論じなかったが、この「六波羅蜜戒」こそが「菩薩戒」という解釈で良いのだろうか?

いや、ちょっと違うぞ?!『瓔珞経』では、「十善」を行じて、永年が経てば、「十信」に行き、そして、天上界に転生するほどの果報が得られるとしている。「十善」は、厳密には「菩薩戒」とは言えないではないか。

しかも、「菩薩戒を受けて、身身に相続し」こそが、菩薩戒の本質を表しているので、とても大切なのだが、この文章に直接相応する文章は『瓔珞経』には無い。とはいえ、だからこそ『浄土十疑論』が大事だといえる。つまり、菩薩戒のありように彩りを添えたのである。

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