太陰暦を廃して、太陽暦を用ひ、五年十二月三日を以て、六年一月一日とす、一昼夜を二十四時に改む、神武帝即位の年を紀元とし、二月十一日を以て、紀元節とす、十一月三日は、今上天皇御降誕の日なるにより、天長節と称し、紀元節と合せて、祝日とし、普く海内に令して祝賀せしめ、従来の五節句を廃して、更に祭日を定めらる、
井上頼國校『皇國新史―中等教育』浪華書院・1897年、174頁
以上の通りである。なお、ここから転じて、江戸時代までは五節句が祝日扱いだったが、それが廃止され、天皇中心・国家中心の祝日・祭日を定めるに至ったのである。ところで、昨年度は【「建国記念の日」に学ぶ『大日本帝国憲法』「上諭」】という記事をアップしている。そこで、なぜ「建国記念の日」と『大日本帝国憲法』が並んでいるかというと、以下の一節を見ていただきたい。
其後仏蘭西も亦大革命を起して立憲政治となり其後欧米各国多く憲政を布くに至り、我国の如きも明治二十二年二月十一日紀元節を卜して帝国憲法を発布せり。
高田早苗『國家學原理』早稲田大学出版部、55頁
以上の通り、明治22年の紀元節、2月11日に『大日本帝国憲法』が発布された。これは、敢えて紀元節にしたのだろうか。『帝国憲法』には「告文」が付記されているが、同文では「皇祖・皇宗」という表現が繰り返し出ており、更に、昨年の記事でも申し上げたが、「上諭」という文章には「國家統治ノ大權ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ傳フル所ナリ」とあって、天皇としての統治の「大権」は、祖宗から承けたものだとされるため、結局は紀元にまで遡っての大権の根拠という話なのかもしれない。
さて、それで、「建国記念の日」だが、呼称としては戦後から用いられたものであるが、戦前にも紀元節と建国記念とを結びつけようとする見解が出されている。
今年二月十一日の建国記念日に愈々事業を開始した。
『産業之日本』タイムス社・大正15年
このように、紀元節が明らかに「建国記念日」とされている。同じような表現は、大正期を中心に何本が見られたのであるが、これは公式に認められたものだったのだろうか。それを見ると、以下のような批判がある。
然るに近頃わが紀元節を建国記念日の如く思考する人のあるのは日本国家の本質を明にせざるものではあるまいか。頗る深慮すべき事であると思ふ。
二荒芳徳『新日本の自主的建設』東京宝文館・大正15年、105頁
以上の通りなのだが、本書ではなぜ、このような問題提起をしたのだろうか。それはどうも、本書の立場として、「建国」とは神話的事実に求めているからだと言える。日本の紀元については、『古事記』などを参照しつつ、神武天皇が日向の高千穂を発し、日本民族の理想を大和に敷き、都を橿原に定められた日であり、そのため、2500年を超える長大な国家を構築し得たとしている。
一方で、西洋諸国での建国は、母国から分離した日、憲法実施の日、共和国創立の日であるため、長くても数百年であるという。いわば、持っている歴史の長さ、重さが違うと言いたいのだろう。それが故の、「紀元」と「建国記念」との違いになるといえる。
それを思うと、現代ではむしろ、「建国記念」が当たり前で、「紀元」を用いることはほとんど無いが、前掲書籍の著者である二荒氏はどんなことを思うのだろうか。
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