参考までに、この663年とは、日本では天智天皇2年に当たり、また、冬10月というと、百済復興を目指して朝鮮半島に出兵したものの、「白村江の戦い」で大敗した時でもあった。そして、この戦いで敗れた後、日本は西日本の防衛網構築に励み、いわゆる防人なども設置された。
ということで、もし、鎮護国家の経典などがあれば、欲しかったはずである。
それで、調べてみると、『日本書紀』では、斉明天皇6年(660)夏5月に「仁王般若会」を行ったこと、更に天武天皇14年(685)冬10月に宮中で『金剛般若経』が説法されたという。つまり、『日本書紀』の段階ではまだ、『大般若経』は導入されていないようである。
続く『続日本紀』では、文武天皇の大宝3年(703)に「○辛未、四大寺に詔して、大般若経を読ましむ。一百人を度す」とあるので、初めて『大般若経』が見られたようである。つまり、玄奘三蔵の翻訳から40年後には、既に日本に来ていたことが分かる。
更に、『続日本紀』では、聖武天皇の神亀2年(725)の項目に、「○壬寅、僧六百人を宮中に請して、大般若経を読誦せしむ。災異を除く為なり」とあって、ここでは明確に「災異」の除去を目的にしたことが分かる。
また、聖武天皇の天平7年(735)5月には、「○己卯、宮中に於いて、及び大安・薬師・元興・興福の四寺に及んで、大般若経を転読せしむ。災害を消除し、国家を安寧する為なり」とある。聖武天皇は、いわゆるハードウェアによる鎮護国家の仏教の完成者ではあるが、『大般若経』の導入も積極的であったことが分かる。
聖武天皇の時代には、天平9年(737)にも「○三月丁丑、詔に曰わく、国ごとに、釈迦仏像一躯を造り、侍菩薩二躯で挟み、兼ねて大般若経一部を写さしめよ」とあって、日本の全国に、『大般若経』を書写させた様子が分かる。これは、国分寺などで法要に用いるためであろう。
そして、同年4月には「○壬午、律師道慈言わく、道慈、天勅を奉じて、此の大安寺に住し、修造以来、此の伽藍に於いて、災事有ることを恐る。私に浄行僧等を請して、毎年、大般若経一部六百巻を転ぜしむ。此に因りて、雷声有ると雖も、災害なる所無し」ともある。つまり、ここから、南都大安寺では毎年、『大般若経』を転読させたことになる。
このように、日本では、『大般若経』を導入する前は、『仁王般若経』『金剛般若経』を用いていたが、『大般若経』を導入してからは、聖武天皇の時代に大々的な導入が図られた経緯が見て取れたのである。平安時代に入っても、『大般若経』はやはり、鎮護国家のための経典として重視された様子が分かるので、経緯はたいがい以上の通りである。
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