禅の修業は単純・直截・自恃・克己的であり、この戒律的な傾向が戦闘精神とよく一致する。戦闘者はつねに闘うべき目前の対象にひたすら心を向けていればよいので、振返ったり傍見をしてはならぬ。敵を粉砕するためにまっすぐに進むということが彼にとって必要な一切である。ゆえに彼は物質的・情愛的・知的いずれの方面からも、邪魔があってはならぬ。もし戦闘者の心に知的な疑惑が少しでも浮んだならば、それは彼の進行に大きな妨げとなる。もろもろの情愛と物質的な所有物は、彼が最も有効的に進退せんと欲する場合には、この上ない邪魔物になる。立派な武人は総じて禁慾的戒行者か自粛的修道者である。という意味は鉄の意志を持っているちうことである。そうして必要あるとき、禅は彼にこれを授ける。
鈴木大拙居士『禅と日本文化』「第三章 禅と武士」
ちょっと、色々な意味で分かりにくい文章であった。特に、禅の修業(原文ママ)の特徴について、単純・直截というのは、どういう辺りを想定しているのか?個人的にはよく分からない。つまりは、これは1938年という近代に書かれた文献ならではの、禅に対する或る種の断定に由来する文脈だといえるだろう。
明治時代に入り、禅宗に限らず仏教の各宗派自体が研究対象になったのは良いことだと思うのだが、もちろん研究である以上、その知見は常にブラッシュアップされる必要がある。
そこで、上記内容を見ると、大拙居士にとっての「戒律的な傾向」というのは、「一心不乱」などという概念と近い位相にあることが分かる。或いは、「三昧」などとも表現されるべきであろうか。つまり、常に闘うべき対象へ、心の全てを向け、その敵を粉砕するために真っ直ぐに進むということになるだろう。
だが、この論理は極めて問題になる可能性もあり、例えば、上記一節でも「立派な武人は総じて禁慾的戒行者か自粛的修道者である」という表現がされている。これは、自らの欲などを前提にせず、ただ目の前の敵を粉砕するという位置付けになるのだろうが、冷静に考えてみると、仏教に於ける戒律の第一は「不殺生戒」である(声聞戒の四波羅夷では異なるが)。
そうなると、そもそも、一心不乱であっても不殺生を犯そうとしているのであれば、それは「戒律的」とも「禁欲的」とも言えないのではないか?という問題が残る。その辺は、禅と戒律に対する総じての見方として、保持しておくべきだといえよう。
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