つらつら日暮らし

『解深密経』に見る「七種戒清浄相」について

『解深密経』とは、玄奘三蔵が訳出した法相唯識系の大乗経典であるが、そうなると当然に瑜伽戒系の思想に裏打ちされているはずで、三聚浄戒についての教えが見られることは既に見たことがあるのだが、今回は別の箇所として、「七種戒清浄相」を見ておきたい。なお、今回は円測による『解深密経疏』を重ねつつ見ていきたい。

 又、諸もろの菩薩、
  能く善く律儀一切の学処の制立を了知す。
  能く善く出離・所犯を了知す。
 釈して曰く、自下の第二、戒の七相を弁ず。先に釈し、後に結す。
 七相を釈するに即ち分かちて二と為す。初め二相の能善了知を明かし、後に五相の正顕受持有り。
 此れ即ち初なり。
 一には能善了知律儀戒中一切学処なり。故に相続経に云く、善く一切の律儀戒を制す。
 二には能善了知出離所犯なり。即ち是れ出罪懺悔の法なり。故に相続経に云く、善く出過す。深密経に云く、諸もろの過法を離るる。
    『解深密経疏』巻9「地波羅蜜多品第七之余」、以下同じ


漢語への訳語としての「学処」とは、基本は「学ぶべき事柄」を指すが、更に「生活規則の条文」を意味し、よって、本経典に於いては、瑜伽行派の行者が知るべき学処の成立経緯を知るべきだという。また、出離、所犯を了知するというが、これらの二相はあくまでも前半部分であり、残りの五相は「正顕受持」とあるが、「正しく受持を顕す」の意味であり、受持の様子に関する説示であるという。

さて、それでは「学処」についての話だが、2つ出ている。そして、いわゆる「摂律儀戒」への対応と、持犯の結果による「出罪懺悔」が対応している。自らが受けている戒律についての正しい理解と、それに伴い、犯してしまった罪を離れる方法が説かれているというのである。仏教で懺悔が成立する条件の1つには、自らが犯した罪自体を正しく認識し、それを発露する必要がある。ここではそれらを指摘しているのである。

 具常尸羅・堅固尸羅・常作尸羅・常転尸羅・一切の有つ所の学処を受学す。
 釈して曰く、此れ後の五相、正顕受持なり。
 五相と言うは、一には具常尸羅、二には堅固尸羅、三には常作尸羅、四には常転尸羅、五には受学一切所有学処なり。此れ後の五相なり。
 瑜伽論第六十二次第解釈の如し。故に彼の論に云く、
 云何が常守尸羅なるや、謂わく諸もろの学処を棄捨せざるが故に〈瑜伽四十二に云く、恒常の戒は、尽寿命を離れて学処の所を棄てず〉
 云何が堅守尸羅なるや。謂わく諸もろの学処を毀犯せざるが故に〈瑜伽四十二に云く、堅固戒は、一切の利養恭敬なり。他の論、本より煩悩に随い能く伏せざるが故に、能く奪えざるが故に〉。
 云何が常作尸羅なるや。謂わく学処に穿穴無きが故に。
 云何が常転尸羅なるや。謂わく穿穴、已に復た還た浄なるが故に。
 云何が受学尸羅の処なるや。謂わく学に随って諸もろの処を具えるが故に〈広釈すれば此の相、顕揚第七・瑜伽二十二の如し〉。
 顕揚十三、別釈の五相、亦た瑜伽に同ず
 解して云く、具常・堅固、二種の尸羅、不捨・不犯を二と為す。常作・常転、二種の尸羅、専ら不犯を精しくす。犯し已れば即ち悔するを二と為す。学処尸羅、謂わく一切学処の修行を具す。
 有釈の七の中有りて、初の二、是れ律儀戒なり。次の二、摂善法戒なり。後の二、利有情戒なり。第七一種、摂前の三に通ずるなり。
    同上


さて、続く「正顕受持」としての五相の説明である。「五相と言うは、一には具常尸羅、二には堅固尸羅、三には常作尸羅、四には常転尸羅、五には受学一切所有学処なり。此れ後の五相なり」とある通りである。そこで、余り他の文献では聞かないこの「五相」について、簡単に検討しておきたい。

・具常尸羅:「常守尸羅」ともいい、諸々の学処(戒律)を棄捨しないことである。
・堅固尸羅:「堅守尸羅」ともいい、諸々の学処を毀犯しないことである。
・常作尸羅:学処に穿穴が無いことだというが、能く全てを把握していることか。
・常転尸羅:穿穴が、已に浄であるとするので、もし、何か問題があっても、すぐに繕うことを意味しているだろうか。
・受学一切所有学処:学に随って諸々の(学)処を具えるとある通りで、普段から戒律の学びを欠かさないことを意味していよう。


以上の通り、戒律を受け、そして学び、受持していくことの詳細が説かれているのだが、問題は今回採り上げている事象のタイトルが、「七種戒清浄相」であることだろう。つまり、何故、「清浄相」なのか?である。

是れを七種戒清浄相と名づく。
 釈して曰く、此れ即ち第二の総結なり、応に知るべし。
    同上


以上のように、これらを「清浄相」だと名付けるとしているが、上記内容だけでは意味が分からない。もう少し丁寧な理解が必要な印象である。それで、『解深密経』本文を見てみると、上記の「七種戒清浄相」はあくまでも、一切波羅蜜多の中に於ける「別説(個別に説かれた)」であるが、「総説」の部分を見てみると「清浄」の定義に係る文脈を見出すことが可能である。

 一切波羅蜜多の清浄相を総説すれば、当に七種を知るべし。何等をか七と為すや
 一には、菩薩此の諸法に於いて他知を求めず。
 二には、此の諸法に於いて見已れば執著を生ぜず。
 三には、即ち是の如き諸法に於いて疑惑を生ぜず。謂わく、能く大菩提を得るや不やと為す。
 四には、終に自讃毀他して、軽蔑する所有らず。
 五には、終に憍傲・放逸せず。
 六には、終に少かに得る所有れども、便ち喜足を生ぜず。
 七には、終に此の諸法に由りて、他に於いて嫉妬・慳悋を発起せず。
    『解深密経』巻4「地波羅蜜多品第七」


以上から、「清浄」というのは、菩薩の生き方自体に関わることが分かる。つまり、菩薩は学ぶべき諸法を、能く自ら学び、執着せず、疑惑を起こさず、自讃毀他せず、驕らず、わずかな見解の所得のみでは満足せず、そして、他者を嫉妬せず、自らの法の開示を惜しまないというあり方である。

いわば法への無執着自体が、「清浄」になるという理解で良さそうだ。

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