つらつら日暮らし

今日は「猫の日」(令和5年度版)

今日、2月22日は「ニャンニャンニャン」の語呂合わせで「猫の日」とのことである。それで、今日は猫に因んだ記事をアップするようにしているのだが、とりあえず以下のような一文はどうか。

 爾の時提婆達多、石を以て世尊を撃たんと欲す。時に諸もろの婆羅門・居士等、悉く瞋恚を懐き、咸く言わく、「我等、即ち提婆達多を殺さん」。
 其の中、人有り、是れ提婆達多の朋友の者なり、即ち提婆達多に報ず。
 提婆達多、聞き已りて、即ち閑林の樹下にて安禅して住す。
 時に、諸もろの婆羅門・居士等、提婆達多の樹下に在りて安禅して住するを見て、各おの相い謂いて曰わく、「汝等、応に知るべし、此の提婆達多、大威徳有り、我等、云何が之れを殺し得んや。云何が、今、我れ斯の悪事を発さんや。宜しく速やかに各おの去るべし」。
 時に、諸もろの苾芻、提婆達多の住して是の如くの威儀して、諸もろの婆羅門・居士等、暫らく瞋怒すると雖も、殺害せざるを聞く。是の諸もろの苾芻、咸く皆な疑い有り、唯だ仏世尊のみ能く疑惑を断ず、縁を以て仏に白す、「大徳世尊、今、提婆達多の非法罪を作りて、諸もろの人衆に修善の法を示すを観察す」。
 仏、諸もろの苾芻に告ぐ、「其れ提婆達多、但だ今世に非ず、斯の非法を作りて、而も正法を現ずるは、老鼠を誑惑して以て其の命を害す。
 汝等、諦聴せよ、我れ汝の為に説く。
 乃ち往昔の時、異方の所有り、一鼠王有りて、五百鼠を与なりて眷属と為す。
 一猫子有りて名づけて火焔と曰う、其の猫、少年の時、所有の鼠等、悉く皆な殺害す、後年、老邁して便ち是の念を作す、『我、昔、少なき時、気力強盛にして、力を以て鼠を捉えて食す。我、今、年、既に朽邁し、気力微薄にして能く捉獲せず、何ぞ方便を設けて、鼠を捉獲せんや』。是の念を作し已りて遍ねく其の地に、乃ち一鼠王の五百鼠と与なりて眷属と為して、此の方所に住むを観る。即ち鼠穴に就いて、詐りて坐禅を作す。
 時に、諸もろの群鼠、穴を出でて遊行す、乃ち老猫の安然として坐禅するを見る、其の鼠、問うて曰わく、『阿舅、今、何ぞ作す所なりや』。
 老猫、答えて曰わく、『我、昔、少年なり、気力盛壮にして無量の罪を作る、今、福を修して其の旧罪を除かんと欲す』。
 時に群鼠等、是の語を聞き已りて、皆、善心を発す、『今、此の老猫、善法を修行す』。即ち鼠等、与に老猫を右遶す、三匝行いて、便ち穴に入る、其の老猫、其の最末後の者を取りて、食す。多時を経ざるに其の鼠、漸く少なし。鼠王、既に此れを見已りて、便ち是の念を作す、『我が鼠等、漸漸に数少なし、其の老猫、気力肥盛にして、是の事、必ず縁由有り』。其の鼠王、即便ち観察して、乃ち老猫の、其の糞中に鼠の毛骨有るを見る。心に即ち知る、『老猫、我が鼠等を食す、我、今、深く鼠を捉えるの時を観ん』。作是の念を作し已りて、便即、窟に於いて、老猫を看るに、乃ち老猫の最末後の鼠を捉えて食するを観る。鼠王、見已りて遠くに避けて立ち、遂に頌を説いて曰わく、
  老猫の身漸く肥え、群鼠積りて漸く少なし、
  苗実根葉を食べれば、糞に応に毛骨ならず。
  汝今禅を修するも善と謂わず、利詐の為に修善の人と作る、
  汝願わくは、無病安穏に住し、我が今の群鼠を汝、食べ尽くさん。
 仏、諸もろの苾芻に告げ、「異念を生じること勿れ、時に彼の火焔老猫は、提婆達多、是れなり。非法罪を作り、諸人衆に於いて修善を示現す」。
    『根本説一切有部毘奈耶破僧事』巻20


・・・長かった(;゜ロ゜)

内容的には、日本にもあるような、いわゆる「昔話」の体裁を採っている。そもそもこの文献は、「破僧事」とある通り、僧団(僧伽)を破ることについての話であり、実際に釈尊在世時に起きたという提婆達多(デーヴァダッタ)の離反について扱っている。

それで、提婆達多の行いの1つに、釈尊に石を投げて、傷を付けて血を出した(五逆罪の1つ出仏身血)というものがあって、上記一節はそれを話題の開始としている。

提婆達多の振る舞いに怒った婆羅門や居士が、提婆達多を殺害しようと相談していたら、それが提婆達多に漏れてしまったという。提婆達多は急に、林中の樹下で坐禅したところ、大威徳を発したという。それを見てすっかり婆羅門や居士は欺されてしまい、これほどの人を殺害しようとしたことを悔いたという。

しかし、そこに疑念を持った比丘達が、釈尊に相談したところ、釈尊は、「提婆達多に欺されてはいけない」といい、上記のような「昔話」をしたのであった。そして、釈尊が話題にしたのが、猫と鼠の話だったのである。

或る猫が、若い頃は気力があったので、好き放題鼠を捕っていたが、老齢になったら出来なくなり、一計を案じた。それは、五百匹の鼠と住んでいる鼠の王の群れに眼を付けて、それを食べるために、鼠の巣穴の前で坐禅するということであった。そして、坐禅する老猫の姿を見た鼠との会話で、「自分は若い頃に犯した罪を懺悔するために、善行の坐禅をしているのだ」などといったところ、鼠はすっかり欺されて、猫の周りを3回回り、そして、巣穴に戻ろうとしたという。結果、老猫は一番後ろを歩いていた鼠を捕って食べた。

それを繰り返したところ、徐々に鼠の数が減っていき、それを疑問に思った鼠の王に、その所行がバレた、という話である。

釈尊はそれを題材としながら、その老猫と提婆達多は同じで、坐禅したとしても婆羅門や居士を一時的に欺そうとしているだけで、実際には自分の欲望を果たそうとしている、という警告を発したのであった。

ということで、今日は「猫の日」なのだが、実は釈尊が猫を説法の題材に用いる時には、余り良いようには話さない。どうも、釈尊は猫が嫌いだった印象である・・・今日、記事にするネタでは無かったかもしれない。

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