我々仏教界と猫は、おそらくインドの頃から親しくて、北伝の『中阿含経』や大乗仏典である『大般涅槃経』にも登場し、また禅宗的には、やはり【南泉斬猫話】で、ぶった切られるお話しが有名である。
そもそも、禅宗寺院に限らず、各地の寺院では境内に穀物を貯蔵する倉庫などを持っていた場合が多かったと思われ、鼠害対策が不可欠であった。よって、もっとも飼いやすい猫をその対策に充てたという。ただ、現在、猫を愛玩動物として考える人が多いように、昔も同様であった。
和尚示して云く。貪欲の多き者は、便ち是れ少人なり。虎子・象子等、ならびに猪・狗・猫・狸等を飼うこと莫れ。今、諸山の長老等の猫児を飼うは、真箇、不可なり。暗き者の為(しわざ)なり。凡そ、十六の悪律儀は、仏祖の制するところなり。慎んで放逸に慣習すること勿れ。
『宝慶記』第5問答
これは、道元禅師の本師である天童如浄禅師の教えだが、猫などを愛玩し、飼うことのは一種の「所有」に当たるため、そのような所有者を「貪欲の多き者」と批判している。南泉斬猫話も、猫の所有を争って起きた一件だったことを忘れてはならない。そして、飼っていた動物を喪った場合は、ペットロスになり修行に差し支えることにもなるが、それもまた本末転倒である。本来は、修行を推進するために、お寺で猫を飼っていたはずなのである。
然れば設ひ三乗十二分教を通利すとも、八万四千の法門を開演すとも、畢竟是れ鼠を窺ふ猫の如し。形静まれるに似たれども、心は求め息むことなし。
『伝光録』第52章
これは、曹洞宗の太祖・瑩山紹瑾禅師が『大般涅槃経』から引用して示された例だが、様々な教えを知っていても、その教えの本質を見ておらず、或いは教えを生み出す「経験」が具わっていないため、外面はそれっぽく見えていても、内心は未だ煩悩にまみれていると批判している。猫も、鼠を追って、息を潜めてジッとしている様子があるが、内心は早く鼠が来ないか、今か今かと待っているのである。
この様子、実はあらゆる場面に適用可能であり、それこそ、我々自身が坐禅をしている場合にも、足や腰が痛い場合には、「早く終われ!」と願うことがあるが、形はジッとしているように見えても、鼠を窺う猫そのものである。
以上、良い喩えには出てこない猫だが、おそらくそれこそが猫への評価なのである。基本的に自分勝手で、好き勝手生きていて、しかも肉食のため、坊さん的には納得できない振る舞いだったに違いない(良寛禅師に、その辺を指摘した偈頌がある)。とはいえ、最近では、猫を寺内に飼う「猫寺」の異名を持つ場合もあるようだし、猫のように生きれば良い、という御垂示もあるため、徐々に評価も変わってきているのかもしれない。
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