法身を覚了すれば一物無し、有為に執すること莫れ。
本源自性天真仏、無為に執すること莫れ。
有無倶に坐断して、一霊の全体、又、如何。
『抜隊得勝和尚語録』
抜隊得勝禅師(1327~1387)とは、臨済宗法灯派・孤峰覚明禅師の法嗣であり、山梨県向嶽寺の開山である。孤峰禅師の弟子だから、というので、語録を読んでいたら、或る在家信者の三十三回忌に即して詠まれた法語に、この句を見付けたわけである。その後調べてみると、抜隊禅師は数ヶ所で、この「本源自性天真仏」を用いていたようだ。
祖録を読まれている方なら良く御存知のように、「法身を覚了すれば一物無し」と「本源自性天真仏」の両方ともに、永嘉玄覚禅師『証道歌』から採られた句である。抜隊禅師は三十三回忌を迎えた在家信者の霊に対し、有無相対を超えるように促したわけだが、その際に『証道歌』の句を用い、それぞれ有為と無為とに対応させたことになる。
そして、その上で、有無ともに断ち切って、一霊の全体とは如何なるものであろうかと尋ねている。一霊とは、この法語を与えた覚霊のことであり、まさに三十三回忌を迎えている状況で、その全体の様子を尋ねている。もちろん、この一霊とは、一多の一を超えた絶対の一であり、法身であり、本源自性天真仏である。法身の覚了と、本源自性天真仏とは、実は、一霊の表裏を意味している。
表から裏へという運動が、法身の覚了であり、だからこそ有為への執着を脱する。一方で裏から表へという運動が、本源自性天真仏であり、だからこそ無為に執着することがない。そこで、有無相対を超えた一霊に至るわけだが、これは特定の状態を指し示すというより、この両方の運動がともに具わったような、万徳円満を指る。
三十三回忌に万徳円満した覚霊、これを我々は普通に「ほとけさま」とお呼びするわけである。
そこで、最近、戒律の記事ばかり挙げている拙ブログで、何故このような記事を挙げたかだが、この「執すること莫れ」という説示自体が、或る種の軌範性を持つのかどうかを問いたいためである。その答えは、禅僧の語法、話法全体を問う必要があるため、なかなか難しいところではあるので、これはあくまでも問題提起である。
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