つらつら日暮らし

7月16日 道元禅師が越前への移転を開始

先日、【7月14日 懐奘禅師永平寺住持職に就位】の記事でも書いたが、道元禅師は夏安居中には夏安居を徹底して御修行されるが、解制となれば、何かの行動を起こされる場合がある。

そこで、今回採り上げるのは、寛元元年(1243)7月16日のことである。この日、道元禅師は京都深草の興聖寺から、越前への移転を開始されたといわれている。なお、最古の伝記では、日付までは記さない。

後に波多野雲州大吏義重、固請するに依りて、移りて越州に下る。寛元二年甲辰七月、吉祥山永平寺を草創す。
    『永平寺三祖行業記』「初祖道元禅師」章、訓読は拙僧


以上の通りの記述で、永平寺(この時、正しくは「吉祥山大仏寺」であった)を草創したのが、寛元2年(1244)7月であったことを記すが、その前の越前への移転開始の日付は書かれていないのである。おそらく、最初にその日付を記したのは、永平寺14世・建撕禅師が編まれた道元禅師伝の『建撕記』の記載であろう。

 寛元元年癸卯〈二月十六日改暦す〉
 この年、七月十六日の比、京を御立あるかと覚ふ、同月末に志比庄へ下著あると見へたり、正法眼蔵三十二巻の奥書に、寛元元年閏七月初一日、越宇吉峰頭に在りて示衆と云り、
 七月十六日深草を発出し、越に著して、最初は吉峰に住せられて、閏七月初一日に開示始まれり、十一月十六日までに十二巻を示さる、今年の十一月六日まで、吉峰に寓在して、その後に禅師峰に移寓して、今年中は留在なり、
    古写本系統『建撕記』カナをかなに改める


以上の通り、日付が書かれているが、しかし、「七月十六日の比、京を御立あるかと覚ふ」とある通り、推測を含む文章であることには注意しなくてはならない。そして、建撕禅師が御自身の御見解の典拠とされたのは、『正法眼蔵』各巻の奥書であることが理解出来る。上記で引用されているのは、『正法眼蔵』「三界唯心」巻の奥書である。なお、その様子から、建撕禅師が参照された写本の系統も理解が可能である。実は、写本の系統によって、奥書の記載が少し異なっているのである。

・爾時寛元元年癸卯閨七月初一日、在越宇禅師峰頭示衆(75巻本系統)
・爾時寛元元年癸卯閨七月初一日、在越宇吉峰頭示衆(60巻本系統)


道元禅師にまで遡ると考えられている『正法眼蔵』の編集方式で、「三界唯心」巻を収めるのは、75巻本・60巻本なのだが、建撕禅師は『正法眼蔵』の「三十二巻」の奥書を「越宇吉峰頭」であるとされている。まず、「三界唯心」巻を32巻とするのは60巻本系統である(75巻本系統では41巻)。そして、吉峰寺とするのも、60巻本なのである。

建撕禅師は、「閏七月初一日」(当時は太陰太陽暦であったため、3年に一度「閏月」があった。この年は7月が2回あり、後ろの7月を「閏七月」や「後七月」などと呼称した)に、越前で『正法眼蔵』の開示がなされたことから、おそらくは逆算して、7月16日に興聖寺を出立したと判断されたのだと思う。

それから、建撕禅師が、越前での『正法眼蔵』の開示(示衆)について述べておられるので、そのことを検討してこの記事を締め括っておきたい。建撕禅師は、閏7月1日から、11月16日までに12巻の開示があったとされる。なお、これはあくまでも「吉峰寺」での開示を指していると思われるのだが、日付がよく分からない巻まで含めると、実は15巻分存在している。そこから、60巻本に該当する諸巻を選ぶと、あれ?9巻分しかない。

単純に、「三界唯心」巻から、「十方」巻(同年11月13日示衆)までの12巻を数えただけなのかもしれない。ということで、拙僧の記事も、推測を含むものとなってしまった。かつての故事を探ることの難しさ、ということか。

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