つらつら日暮らし

無住道曉『沙石集』の紹介(10g)

前回の【(10f)】に引き続いて、無住道曉の手になる『沙石集』の紹介をしていきます。

『沙石集』は全10巻ですが、今回紹介する第9巻は、嫉妬深い人・嫉妬が無い人、他にも愚かな人や因果の道理を無視して好き勝手するような者などを事例として挙げながら、我々人間の心にある闇、或いは逆に爽やかな部分を無住が指摘しています。具体的には以下のような内容があります。今回は「八 僻事の物の報ひたる事」を使ってみたいと思います。掻い摘んでお話しをしますと、この「僻事」というのは、過ちのことであり、過ちを犯して他人を残忍に殺してしまった人が、その殺された人の報いによって、大きな苦しみを受けたという話です。

 或る在俗の武士の下人が、主と親しい下人が乗り心地の良い馬を持っているのを欲しいと思って、下人仲間と語らって、野原の中で、夜に馬から(馬の持ち主を)引き落として縄をかけた。馬の持ち主が「これはどうしたことだ」といったが、(下人達は)「主人が仰るには、そなたを咎めていて、『首を切れ』ということだ」といった。(持ち主は)「何かの間違いではないのか、我が身に過ちなど無いはずだが」といったのだが、(下人達は)道路から引き入れて、すぐに切ろうと思い、最後の十念を勧めたところ、念仏を2~30回唱えたときに、首を打った。打ち終わって、「切るのが上手くいった」と思って、その馬を奪って帰ったのであった。
 この(持ち主の)男は、打たれて気絶していたが、気付いて起き上がり、頭の辺りを触ってみると、頭の天辺が切られて欠けていたけれども、重傷ではなかった。そして、縄がかけられたままだったが、主人の下に走り行くと、「このようなことがありました」と申し上げた。すぐに、(持ち主の)主人は、(相手の下人が仕えている主人と)親しかったので、子細を申し送った。
 (その相手の主人は)夜の内に、2人の下人を捕まえて、責めて問うたが、少しも申し逃れが出来なかった。「他に問うべきこともないだろう。その持ち主の男に、その傷付けた野原の中で切らせよう」とし、この2人は、一度に斬られてしまった。
 夜に入ったばかりの悪行が、次の日の朝には報い、そして斬られたということは、まさに因果の報いが、違わず起きたという証である。
    拙僧ヘタレ訳


まさに、冤罪事件に対する報いは、起こした者に対して必ず起きるということです。ですから、我々は悪心を持って、他人を貶めようとしてはなりません。貶めれば、それはかならず自分に還ってくるわけです。一時期、日本でも自分さえ良ければいい、他人は蹴落としてものし上がるべきだ、といった意見が聞かれました。或る意味、格差社会への序章は、このときの、この低俗な精神性に見えていたといえましょう。

この『沙石集』が書かれた時代は、鎌倉時代中期から後期にかけてですから、いわゆる平安時代の貴族社会が衰滅し、中世へと移り変わる時代でありました。もちろん、間には後醍醐天皇による「建武の中興」といった、天皇中心の貴族社会再興が模索されたことがありましたが、それは自滅し、結果的に室町幕府の誕生を促すこととなりました。そのような社会的転換の時代にあって、人の心は荒み、この文章で見るような、他人の物であっても、自分が欲しい物があれば、相手を騙してでも奪って良いという風潮もあったのでしょう。このような「物語」が残された意義を考えれば、やはり、時代に対する倫理的警鐘を鳴らすという目的があったことは否めません。

さて、この話の内容としては、或る武士に仕えている者が、別の同様の者に対して、その者の馬を欲しがったことから始まった事件です。そして、持ち主に対し、騙す側は、主人の言葉を持ち出して首を斬ろうとし、実際に傷は付けましたが、この斬られた者はかすり傷で済み、結果的に自分がされたことを主人に告げ、そこから騙した者は捕らえられ、逆に斬ろうとした馬の持ち主から斬られてしまいました。これこそまさに、自業自得であるといえましょう。

我々は、様々なモノを欲しがり、それだけに心奪われることがあります。その結果、目的によって手段を正当化し、相手を傷付けたり、貶めたりすることがあります。しかしながら、本来であれば、この不純な目的自体を自ら反省し、別の方向へと改めなくてはならないのです。他人の物が欲しいのであれば、騙して奪うのではなくて、キチッとした対価を支払い、そして入手すべきでしょう。もちろん、先方が譲ることを拒否するのであれば、スパッと諦めるべきであるともいえます。

そういえば、先だって、グリーンピースという自称・環境保護団体(という名のテロ集団?)が、調査捕鯨で獲れた肉を、船員が横流ししていたのではないか?という妄想を抱き、そして自ら運送会社に忍び込んで、配送物を盗みました。関係者が逮捕されたわけですが、この一件では、横流しについて、若干の不透明性があったにせよ、事件性は無かったことになったようです。その意味では、グリーンピースは、「横流し」という「冤罪」を作ろうとし、その結果、逆に自らの犯罪性が露見して逮捕されたということになりそうです。現代版の『沙石集』的教訓かな、という感じもします。

【参考資料】
・筑土鈴寛校訂『沙石集(上・下)』岩波文庫、1943年第1刷、1997年第3刷
・小島孝之訳注『沙石集』新編日本古典文学全集、小学館・2001年

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コメント一覧

tenjin95
コメントありがとうございます。
> 無門 さん

確かに、一ヶ月が早いですね。もう、月末か・・・と思います。今月は、かなり忙しかったので(汗)

記事の内容にもありましたように、悪心でもって、他人を貶めようとする場合には、それ相応の報いがあると思って間違いないようです。まぁ、なにをもって「悪」とするのかで、色々な議論になってしまうんですけどね・・・
無門
また今月も連載記事の時期ですか。一ヶ月が早いですね。この記事を見ますと、善悪をわきまえねばならないと感じますね。
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