この箇所は「障菩提門」といって、菩提を得るための障害を除く三種の心を示した箇所です。なお、以下の文章で、二字下げは天親菩薩『浄土論』の本文で、一字下げが曇鸞大師の解釈になります。
一には智慧門によりて自楽を求めず。我心の自身に貪着することを遠離するがゆゑなり。
進むを知りて退くを守るを「智」といふ。空・無我を知るを「慧」といふ。智によるがゆゑに自楽を求めず。慧によるがゆゑに、我心の自身に貪着することを遠離す。
二には慈悲門によりて一切衆生の苦を抜く。衆生を安んずることなき心を遠離するがゆゑなり。
苦を抜くを「慈」といふ。楽を与ふるを「悲」といふ。慈によるがゆゑに一切衆生の苦を抜く。悲によるがゆゑに衆生を安んずることなき心を遠離す。
三には方便門によりて一切衆生を憐愍する心なり。自身を供養し恭敬する心を遠離するがゆゑなり。
正直を「方」といふ。外己を「便」といふ。正直によるがゆゑに一切衆生を憐愍する心を生ず。外己によるがゆゑに自身を供養し恭敬する心を遠離す。
『浄土真宗聖典(七祖篇)』146頁
このようにして見ると、元から天親菩薩の智慧と慈悲と方便とが分かりやすく示されているわけですが、それをさらに、「智・慧」「慈・悲」「方・便」という字義にしたがって転じて釈して示しているのが曇鸞大師だといえましょう。このことによって、非常に分かりやすくなっています。まず、「智」とは、我々の進退をよく弁えることで、自由無碍の様子を知ることになるわけですし、「慧」によって、空や無我といった仏教の道理を知ります。
さらに、「慈悲」については、かつて【約300字で仏教(4)】でも示したように、抜苦・与楽として示しています。
また、「方便」についての指摘がとても参考になります。正直(まっすぐということ)なる様子を「方」とし、「便」については「外己」としています。この「外己」は、意味として「相手の立場に立つこと」とされています。己を外に出すというのが基本的なイメージでしょう。方便というのは、自分が自分がと、自説を通すのではなくて、まずは相手がどのように考えているのかを考え、そしてその相手にしたがった教えを示すことになります。相手を真心から思うからこそ、一切衆生を救わねばならないという誓願を起こすことは出来、また、相手の立場に立つからこそ、自分を大切に思わなくても済むということになるのです。そこで、さらにこの応用について、天親菩薩の言葉から見ていきましょう。
向に説く智慧と慈悲と方便との三種の門は般若を摂取し、般若は方便を摂取す、と知るべし。向に我心を遠離して自身に貪着せざると、衆生を安んずることなき心を遠離すると、自身を供養し恭敬する心を遠離するとを説けり。この三種の法は菩提を障ふる心を遠離す、(と)知るべし。
『浄土真宗聖典(七祖篇)』40頁
智慧と慈悲と方便とがあって、般若を取り入れ、そして般若によって、方便を取り入れるのであります。般若があるだけでは、自分自身の悟りに安住するだけで、何の役にも立ちません。その般若自体が、多くの人に教えを広げようとする方法を導いてくれることを信じ、そして衆生に向かうべきだという教えになります。その時、最も大切なのは、先にも述べたように、自分自身をそれほど重んじないということです。やはり、布教教化には方便が重要ですね。
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