然れば亦、経に謂く、小乗戒は犯有れば即ち捨す。大石の破れるが如く、修補すべからず。菩薩戒は則ち金銀なるが如く、若し損すれども幾回も修補すべし。是の故に若し人心中に犯有ることを覚えるは、半月半月、布薩し礼仏懺悔すべし。晦日に懺悔すれば則ち十六日より後の罪悉く滅す。十五日に懺悔すれば、朔日より後の罪皆消えるべし。一生、是の如し。則ち縦い臨終に及ぶも、少しも罪有ること無し。是の故に謂く、命終時正見なれば心歓喜す。豈爾らずや。
伝聞するに、此の郷、昔従り未だ菩薩戒の授受有らず。是れ、因縁の未だ到らざるなり。者回因有り縁有り、授受既に畢んぬ。但、龍天善神の擁護に非ず、亦、諸仏・菩薩の歓喜なり。
『永福面山和尚広録』巻10「肥後求麻永國寺満戒普説」
これは、布薩に対する菩薩戒と声聞戒(小乗戒)との違いを示した内容だといえる。既に示したものだが、声聞戒では、それを犯すことがあれば、捨てることになるのである。例えば大きな石が壊れてしまうようなもので、直すことが出来ない。ところが、菩薩戒は、例えば金銀のようなもので、何かが原因でくすんだりしても、何度でも磨き直したりすれば輝きを取り戻すとしているのである。
よって、菩薩戒を受けた者は、半月ごとに布薩する必要があるのである。その時の行法は、礼仏し懺悔することである。もし、晦日(月末)に懺悔すれば、16日以降の罪が悉く滅し、15日に懺悔すれば、1日からの罪が皆消えるのである。そして、これは一生に拡大出来る。そのようにすれば、臨終に及んでも、少しばかりも罪が残ることはなく、その時に正しい見解に住していれば、心が歓喜するのである。
また、面山禅師は、自分が聞いたこととして、昔からこの求麻の地では、菩薩戒の授受が行われたことがなかったが、それは菩薩戒を受けるという因縁が到来していなかったためであり、いまここで因縁があって、菩薩戒の授受は終わった。しかし、これは龍天や善神の擁護では無くて、諸仏・菩薩が歓喜して行うことだというのである。何故、龍天や善神ではなくて、諸仏・菩薩の名が出るのかだが、やはり授戒だからなのだろう。龍天も、どちらかといえば戒を受ける立場であり、授けるのは仏や菩薩の役目である。そういう違いを想起すべきであろうか。
なお、次の記事で、ひとまずはこの普説については論じ終わるので、あと1日お付き合いいただきたい。
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