つらつら日暮らし

「カネボウ現象」と仏教の看板について

定期購読しているので、拙僧の手元に毎月届く岩波書店『図書』ですけれども、最新号となる2010年4月号に、俳優の小沢昭一氏が、「カネボウ現象」という一文を掲載しておられました。とりあえず、その一節を紹介してから、話をしていこうと思います。

「カネボウ」という化粧品の会社がございますね。あれ元は、鐘ヶ淵にあった紡績会社が、時代の変化にあわせて紡績から化粧品に営業品目を変え、でも社名を残して「カネボウ」なんでしょう。ま、そういう企業は他にも一杯あると思いますが、所詮、私も、営業品目が変わってきたのだと思うのです。
    前掲同誌、1頁


小沢氏はこの一文の前に、御自身「一介の役者」と謙遜されつつ、岩波書店から、俳句の本や遊び方の本、或いは自分史に関する本などを刊行した旨仰っており、役者はどこかに行ってしまって、「一端の著述業」であるとも述べています。まぁ、何か一つに才能がある人は、多くのことに才能がある場合もあり、小沢氏の場合もそういうことなんだろうと思うのですが、役者は見た通り、「肉体労働」であるそうで、80歳を過ぎてしまうと、さすがにそちらの仕事は厳しいようです。そこで、自分自身、同じ小沢昭一という看板を背負いつつも、その営業品目を変えたという話をしているようです。

例示された「カネボウ」ですが、確かに、社名だけ残ったという感じですよね。破綻して、2004年以降は、あちこちの会社に切り売りされながら、その社名の維持をしてきました。あくまでもネット上で検索しただけのことですけど、いわゆる「カネボウ化粧品」というブランドは、既に花王の子会社になっています。そして、いわゆる「鐘淵紡績」を母体とする会社は、「クラシエ」として、実質的に名称を失ってもいます。だから、元々の会社については名前が変わり、しかし、或る時期に形成されたその名称へのイメージというかブランドが事業の一部も引き継いで、現状至っているということですね。

さて、企業であれば、「なるほどな」という話で終わってしまうのでしょうが、一筋縄でいかないのが仏教を始めとする「宗教」です。企業であれば、ここまで社会情勢が変わってしまえば、今更に「紡績会社でなければけしからん」とかいう人は、正直、何も分かっていない人として排斥されて終わってしまいそうです。ただ、仏教ですと、おそらく「紡績会社に還れ」というニュアンスのセリフ以上ではない「釈尊に還れ」とか「原始仏教に還れ」とかいう人が少なくないんですよね。

でも、実際に、日本の仏教は「カネボウ現象」のように、名前だけは残して他の全てが変わってしまっていることだってあるでしょうし、それこそむしろ「時代の変化に合わせて」という話になりそうな気がするのですが、何故、問題点ばかりが喧伝されてしまうのでしょう?拙僧は、そこが非常に疑問です。大体、インドの釈尊に還らねばならない、というのは、真理でもなんでもなくて、ただそういいたい人の「態度」でしかないはずなんですが・・・

まぁでも、「カネボウ」というブランドイメージの強さに、結局そこは別会社の子会社にするという選択肢が採られたように、「イメージ」というのは大切です。それがあって、初めて社会性を獲得するためですね。ただ一方で、イメージは我々の思考を必要以上に縛るものでもあります。よって、とりあえず企業のように、世間に受け入れられること自体を目的にしているとすれば、イメージを優先させても良いでしょうが、仏教というか宗教というのは、そんな単純でもなし、よって我々自身に影響するイメージについて、もっと慎重に考えてみても良いだろう、とか思うんですね。

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コメント一覧

tenjin95
コメントありがとうございます。
> 護法神 さん

ご参考になれば幸いです。
護法神
名前記入忘れしました
Unknown (Unknown)
2010-04-20 22:20:15
のコメントは、私、護法神のコメントです。
Unknown
> では「仏教」とは何なのか?ということですし、我々僧侶や寺院が、それで食べていくだけの売り物は何か?と考えると、やはり、「不合理」との折り合いの付け方だと思うんですね。そして、我々の人生で襲う最大の不合理は「死」です。葬式仏教が、実は非常に大切なのは、その点に尽きます。

> 新しいことをすれば、伝統的な見解の人から叩かれ、古いことだけをしていれば、今度は古くさいと叩かれる。多くの一般人は、ほとんど、反射神経的なレベルでのみ批判を寄せてきます。そして、そのレベルので批判に、耳を貸すべき建設的意見は存在しません。正直、批判者も、或いは批判された我々の方も「ちょっと落ち着け」と思うんですね。


tenjin95さま

納得のいくお返事を、ありがとうございました。
tenjin95
コメントありがとうございます。
> 護法神 さん

> 「インドの釈尊に還らねばならない」という話はおいておきまして、以前のコメントで「大乗仏教というのは仏教を多くの人に広める指向を内在している仏教だと思っています」と私は書きました。もう少し言葉を付け足すと「仏教」というのは人々が日常生活の中で生きていく上での心のあり方について役に立つべきものではないか、とも思っています。

大枠としては、そういうことであろうと思います。では、具体的には何なのか?という話が、これまでも問われてきましたし、我々も問うていく必要があるだろうと思います。

> 最近の庶民の仏教離れを何とかしようと「お寺でジャズを」のような企画をして人にお寺へ足を運んでもらう機会づくりの努力をしているお寺さんもあります。しかし、それは一時の集まりに過ぎずに終わり、かえって主催する側がそのイベント成功に達成感を感じてしまってはかえってお寺の方が仏教離れなっていく可能性もあります。

仰る通りです。本末転倒でしかないので、あくまでも方便は方便として割り切らないとならないでしょうね。

> 仏教で食べていくということは何の悪いと言うようなことはありませんが、やっぱりお寺の商品(失礼な言葉になってっしまってすみません)は「仏教」でしょう。

そうですね。それで、では「仏教」とは何なのか?ということですし、我々僧侶や寺院が、それで食べていくだけの売り物は何か?と考えると、やはり、「不合理」との折り合いの付け方だと思うんですね。そして、我々の人生で襲う最大の不合理は「死」です。葬式仏教が、実は非常に大切なのは、その点に尽きます。

> 例えが全く違う分野なのですが昔レッド・ツェッペリンというロックバンドがありまして、彼らは自分達がしたい音楽と聴衆が聞きたい音楽をいかにぎりぎりのところでバランスさせるかということで非常に苦労をしたと言われています。

彼らは新しいことを模索することが必要ですからね。仏教の難しいところは、余りに新しいことは倦厭されるということです。伝統があって、初めて力を持てるので、新規なことは余り意味が無いのです。

> 現代日本の大乗仏教のお寺のお坊さんも、そう取り組んでいると考えると、ご苦労の多いお仕事なのだろうなとしみじみ思います。

新しいことをすれば、伝統的な見解の人から叩かれ、古いことだけをしていれば、今度は古くさいと叩かれる。多くの一般人は、ほとんど、反射神経的なレベルでのみ批判を寄せてきます。そして、そのレベルので批判に、耳を貸すべき建設的意見は存在しません。正直、批判者も、或いは批判された我々の方も「ちょっと落ち着け」と思うんですね。
護法神
日本のお坊様のご苦労を思う
もしかするとスレ違いコメントになってtenjin95さんに怒られるかも・・・と覚悟つつ、書いてみます。

「インドの釈尊に還らねばならない」という話はおいておきまして、以前のコメントで「大乗仏教というのは仏教を多くの人に広める指向を内在している仏教だと思っています」と私は書きました。もう少し言葉を付け足すと「仏教」というのは人々が日常生活の中で生きていく上での心のあり方について役に立つべきものではないか、とも思っています。


最近の庶民の仏教離れを何とかしようと「お寺でジャズを」のような企画をして人にお寺へ足を運んでもらう機会づくりの努力をしているお寺さんもあります。しかし、それは一時の集まりに過ぎずに終わり、かえって主催する側がそのイベント成功に達成感を感じてしまってはかえってお寺の方が仏教離れなっていく可能性もあります。

仏教で食べていくということは何の悪いと言うようなことはありませんが、やっぱりお寺の商品(失礼な言葉になってっしまってすみません)は「仏教」でしょう。

・・・というような話を懇意にしていただいているお寺の住職さまから最近聞きました。

例えが全く違う分野なのですが昔レッド・ツェッペリンというロックバンドがありまして、彼らは自分達がしたい音楽と聴衆が聞きたい音楽をいかにぎりぎりのところでバランスさせるかということで非常に苦労をしたと言われています。

現代日本の大乗仏教のお寺のお坊さんも、そう取り組んでいると考えると、ご苦労の多いお仕事なのだろうなとしみじみ思います。
tenjin95
コメントありがとうございます。
> 叢林@Net さん

> 面白い!と心のなかで叫んでしまいました(笑)

教義的な追求というよりも、教化系のお話しですね。

> 時間の積み重ね(歴史)は、そういう意味でも重いですよね。カネボウの例は非常に分かり易かったと思います。

結局、原理主義の人は、今までの積み重ねを見ません。現場主義の人は、今しか見ません。両方とも問題有りだと拙僧は思います。
叢林@Net
助化師さま
http://blog.goo.ne.jp/sorin-net
面白い!と心のなかで叫んでしまいました(笑)

>大体、インドの釈尊に還らねばならない、というのは、真理でもなんでもなくて、ただそういいたい人の「態度」でしかないはずなんですが・・・

時間の積み重ね(歴史)は、そういう意味でも重いですよね。

カネボウの例は非常に分かり易かったと思います。
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