天真寺日記

天真寺の日々を綴ります

伝道院の記事

2011-01-18 11:13:39 | 天真寺
資料を整理していたら、昭和56年10月10日付けの本願寺新報が出てきました。
今から30年前、住職が伝道院一期生として住職課程を受講した際の記事であります。
その時の記事→http://www.tenshin.or.jp/pdf/s561010.pdf(PDF)
下記は、本願寺新報(昭和56年10月10日付)より転載しました。

開教に打ち込む父を見て・・・
千葉県松戸市の天真寺で法務にいそしむ西原恵照(31)もその一人。今年4月から7月にかけて行われた今年度第一期住職課程を修了したばかりだ。恵照さんを語る場合、天真寺を建立し都市開教に身命を注ぐ父・正念住職(54)の存在に触れないわけにいかない。島根県邑智郡のいわゆる過疎寺院に生まれた正念さんは、戦後しばらく農協で働きながら寺の護持にあたっていたが、昭和32年に上京する。「島根でも生活できたのですが生き方の問題として”信心の世界に生きる”一大決心をした」からだった。過疎地から過密都市へ移って伝道を志した好例といえよう。

しかし、東京での生活は苦労の連続といってよかった。六畳一間のアパートに妻と子ども二人。長男の恵照さんは、まだ小学校に入るか、入らないかの年齢だった。それに、東京に門信徒や友人がいるというのでもなかった。全く裸一貫からの出発だったのである。正念さんは夜、東京佛教学院に通い、昼はもっぱら、携帯用のりんをたたきながら、アパート周辺を歩き回った。魚屋の前ではツバをはきかけられたこともあったという。経済的な苦しみに耐えているうち、やがて人とのつながりもでき、昭和四十七年には待望の寺院がもてるようになった。といっても、借金をして分譲住宅を買ったのである。場所は人口急増都市で本派寺院のない松戸市を選んだ。初めの法座(現代的に仏教講座会という)を開いても集まるのは二,三人だったが、正念住職の「一人でも念仏者が育ってくれればありがたい。ご門徒の方と一緒に法を喜びたい」とするひたむきな態度が、人々の共感を呼び、今では毎月の法座に二,三十人、彼岸会などの行事には二十畳の本堂が満堂になるという。

こうした父の姿を見て育った恵照さんが、影響を受けないはずがない。知らず知らずのうちに仏教への関心が高まり、新寺院建立をキッカケに東京佛教学院へ入学。また、数年後、両親が病気になったのを機に、四年間のサラリーマン生活にも別れを告げ、僧侶の道を歩む決心をしたのである。すでに結婚していた恵照さんが、妻と二人の子どもの生活を考えると、ずいぶん勇気がいったに違いない。さらに「もっと勉強したい」という気持ちが、恵照さんをして住職課程に進ませた。
その恵照さんがいう。「住職課程に入学して、ご門徒さんによって生かされていることをつくづく感じました。ただ、講義内容については抽象的なので、もっと実践的な研修があってもよいと思います」と。今、恵照さんは住職を補佐しながら、現代人にアピールできる寺院をめざし、子ども会や声明の会を結成しようと、実践に励んでいる。


天真寺の歴史を感じる記事でありました。

(龍)