天真寺日記

天真寺の日々を綴ります

親鸞聖人ご誕生の地(後編)

2011-12-13 20:43:12 | 京都便り

京都は伏見、日野の里でお生まれになった親鸞聖人は

お得度されるまでの幼少期をこの地で過ごされました。

 

日野の由来は中臣鎌足(藤原鎌足)が社殿を造営して、

奈良の春日野にちなみこの地を春日野と名付けられたのが始まりです。

伝説によると、春日野と書いた看板を山の上にあげていたところ、

春の字だけがなくなっており、鹿に食べられてしまったとか・・

当時興隆の地であった春日野と同じ地名にするのは、やはりおこがましかった・・

と、地名を日野に改められたそうです。

 

藤原北家の初代真夏から7代の孫、資業が自ら出家して法界寺を建て日野氏を称するようになり

それから4代後に親鸞聖人は法界寺でお生まれになったと伝えられます。

 

石の下に親鸞聖人のへその緒が埋められているそうです

 

聖人の産湯として使われた井戸

 

 

法界寺は日野家の菩提寺で、弘仁13年(822)に慈覚大師円仁より送られた

伝教大師最澄自刻の薬師如来の小像(9cm)を、80cmの薬師如来像の胎内に収めて

薬師堂を本堂とし、日野薬師、乳薬師として親しまれています。

(当時は天台宗、現在は真言宗醍醐寺派)

山門からの眺め

 

藤原時代の浄土教の流行、末法思想の影響で、極楽浄土の具象化とされた宇治の平等院鳳凰堂と

相前後して法界寺の阿弥陀堂が建立されたそうです。

当時は観音堂や三重塔、五大堂や地蔵塔など多くの堂塔が立ち並んでいたそうですが、

後に織田信長の兵火に焼かれ、現存しているのは阿弥陀堂だけとの事。

 

阿弥陀堂の中に入ってみました。いきなり阿弥陀如来の座像が目の前に

残念ながら、撮影は禁止

丈六(約4.85m)の阿弥陀如来像は定朝様式だそうです。

阿弥陀堂は阿弥陀如来を囲ってあるだけのよう・・いわゆる狭くて、

その分阿弥陀様がより大きく見えて、しかもすごく近くで見上げるんです

阿弥陀如来像の周りをぐるっと回れました。

古い四本の柱には十二光仏、その上の漆喰の壁には飛天が舞っているのが見て取れます。

光背に透かし彫りの飛天光、天蓋、天井も素晴らしかったです

きっと当時はもっときらびやかで、本当に浄土を思わせる空間だったのでしょう。

 

何よりも、大きな阿弥陀如来が間近な事に感動しました

まだ幼く小さな親鸞聖人にすれば、もっともっと大きく見えてその存在感は圧倒的だった事と思います。

今目の前におられる阿弥陀様に、毎日手をあわせておられる幼少の聖人を想像しました。

お父様と又はお母様に手をひかれ、ご一緒に阿弥陀様に手を合わせ、

絶対的な安心感に包まれていらっしゃった。

ご両親と別れられて一人になっても、きっと合掌されながら仏様に語りかけておられた事でしょう。

悲しいときも苦しい時も歓びの時も合掌し、仏様に育まれていかれた親鸞聖人・・

阿弥陀如来は、いつも同じ慈しみの目で聖人に暖かく語りかけておられたのでしょう。

風光明媚な日野の里で過ごされた親鸞聖人。

 

後にお念仏の道を歩まれて、阿弥陀如来のお心を明らかにしてくださった聖人は

いつもいつも幼少時代に手を合わせた阿弥陀様に聴き続けられていたのだと思いました

 

京都にお越しの際は、少し足を伸ばして日野の里を訪ねてみてください。

絶対オススメします

(果)


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