天真寺日記

天真寺の日々を綴ります

華葩

2011-01-23 15:37:28 | 天真寺
毎週日曜日朝7時から朝のお参りがあります。

本日のご和讃は、「無明煩悩しげくして塵数の如く遍満す愛憎違順することはコウブ岳山にことならず」(正像末和讃)から6首。
御文章は「一念大利章」でした。

終了後は、茶話会があります。



今回は、本日の雅楽教室でいらっしゃっていた弘山先生からお土産がありました。

本願寺御正忌報恩講に出勤したら「華葩」を頂けます。
華葩は、蓮の花の形をかたどった紙です。法要をつとめる時に華葩を蒔きます。その由来は、仏や菩薩が来迎した際に、讃嘆するために大衆や天部の神により華を降らしたという故事にちなんでいるようです。(wikipedia)

先生が毎座報恩講に出勤され、その時に頂かれた華葩をプレゼントして下さいました
有り難いことです



とても綺麗な絵柄です。

(龍)

悪人とは?

2011-01-22 22:12:58 | 天真寺
本日は仏教壮年会。

今回は、季刊せいてん86号に掲載されている「はじめて学ぶ親鸞聖人の教え」森田真円著を学びました。
テーマは「悪人正機」

今回は追加資料として、
■「悪人」とは何か 愚の力 本願寺門主 大谷光真著p75
■歎異抄試訳 五木寛之
を一緒に読みました。



善人とは?悪人とは?
ヒートアップ!話は盛り上がっていきました。

終了後には、お汁粉を頂きました。お餅は、新年のお供えのお餅です。



よく学び!よく食べて!



ワイワイガヤガヤ!楽しい天真寺仏教壮年会です。

追伸
以前、青年会(東青僧)の機関誌に投稿した善悪についての原稿がありましたので載せておきます。
http://www.tenshin.or.jp/manuscript/manu-t4.html

(龍)



毎月20日はお寺の日

2011-01-21 15:38:13 | 法要
毎月20日はお寺の日。

午前11:00から写経教室。

午後12:00からは抹茶を楽しむ会。
今年から毎月20日12:00~抹茶会が開催されております。
抹茶いっぷく100円です(天真寺門信徒は無料)

こんな感じです↓


そして、午後1:30~ 定例法座でした。

終了後には、新年のお供えのお餅で作ったお汁粉を頂きました。 



れんげ会の皆様有難うございました。
美味しかったです。

(龍)

天真寺ホームページ更新(お経CDアップしました)

2011-01-19 21:27:12 | 天真寺
天真寺ホームページを更新しました。
http://www.tenshin.or.jp/compactdisc.html

仏教讃歌CDの項目をリニューアルしました。
仏教讃歌CD2枚の写真を載せました。

仏教讃歌20UTAOUの表紙


仏教讃歌20ARIGATOUの表紙



またこの度、新しく「お経CD」についてのせました。

日常のお勤めの表紙


「お経CD」は、日常勤行聖典のお経を読んだ音声が入ってます。
5年前位にICレコーダーに吹き込んだ音声です。
お経の調声は龍哉。
御文章は住職が読んでおります。

ホームページからは、
仏教讃歌20からは「天ちゃんのうた」
お経CDからは「讃仏偈」「重誓偈」「仏説阿弥陀経」を聞くことができます。

(龍)



伝道院の記事

2011-01-18 11:13:39 | 天真寺
資料を整理していたら、昭和56年10月10日付けの本願寺新報が出てきました。
今から30年前、住職が伝道院一期生として住職課程を受講した際の記事であります。
その時の記事→http://www.tenshin.or.jp/pdf/s561010.pdf(PDF)
下記は、本願寺新報(昭和56年10月10日付)より転載しました。

開教に打ち込む父を見て・・・
千葉県松戸市の天真寺で法務にいそしむ西原恵照(31)もその一人。今年4月から7月にかけて行われた今年度第一期住職課程を修了したばかりだ。恵照さんを語る場合、天真寺を建立し都市開教に身命を注ぐ父・正念住職(54)の存在に触れないわけにいかない。島根県邑智郡のいわゆる過疎寺院に生まれた正念さんは、戦後しばらく農協で働きながら寺の護持にあたっていたが、昭和32年に上京する。「島根でも生活できたのですが生き方の問題として”信心の世界に生きる”一大決心をした」からだった。過疎地から過密都市へ移って伝道を志した好例といえよう。

しかし、東京での生活は苦労の連続といってよかった。六畳一間のアパートに妻と子ども二人。長男の恵照さんは、まだ小学校に入るか、入らないかの年齢だった。それに、東京に門信徒や友人がいるというのでもなかった。全く裸一貫からの出発だったのである。正念さんは夜、東京佛教学院に通い、昼はもっぱら、携帯用のりんをたたきながら、アパート周辺を歩き回った。魚屋の前ではツバをはきかけられたこともあったという。経済的な苦しみに耐えているうち、やがて人とのつながりもでき、昭和四十七年には待望の寺院がもてるようになった。といっても、借金をして分譲住宅を買ったのである。場所は人口急増都市で本派寺院のない松戸市を選んだ。初めの法座(現代的に仏教講座会という)を開いても集まるのは二,三人だったが、正念住職の「一人でも念仏者が育ってくれればありがたい。ご門徒の方と一緒に法を喜びたい」とするひたむきな態度が、人々の共感を呼び、今では毎月の法座に二,三十人、彼岸会などの行事には二十畳の本堂が満堂になるという。

こうした父の姿を見て育った恵照さんが、影響を受けないはずがない。知らず知らずのうちに仏教への関心が高まり、新寺院建立をキッカケに東京佛教学院へ入学。また、数年後、両親が病気になったのを機に、四年間のサラリーマン生活にも別れを告げ、僧侶の道を歩む決心をしたのである。すでに結婚していた恵照さんが、妻と二人の子どもの生活を考えると、ずいぶん勇気がいったに違いない。さらに「もっと勉強したい」という気持ちが、恵照さんをして住職課程に進ませた。
その恵照さんがいう。「住職課程に入学して、ご門徒さんによって生かされていることをつくづく感じました。ただ、講義内容については抽象的なので、もっと実践的な研修があってもよいと思います」と。今、恵照さんは住職を補佐しながら、現代人にアピールできる寺院をめざし、子ども会や声明の会を結成しようと、実践に励んでいる。


天真寺の歴史を感じる記事でありました。

(龍)