原雅子さんの「鵠沼」を読んでいて
自分の幼き日々の鵠沼海岸を思い出しました
現在、祖母がひとりで住んでいた家の離れを使ってアトリエにしています
この通りは昔ながらの家が残る通りとして「昭和通り」とか「明治通り」(明治生まれが多かったから)などと呼ばれておりましたが
その面影を残す家は、うちとうちの前のN邸だけとなってしまいました
まだ幼稚園にも入らないような小さい頃
私は祖母に連れられて、よくこの鵠沼海岸の家に滞在したものです
その頃私はこの家を「なみのうち」と呼んでいました
夜になると街灯も少なく、真っ暗で波の音だけ、カニのカサカサと歩く音だけが聞こえたからだと思います
既に鵠沼プールガーデンは開いており、夏休みには毎日通ったものです
まだ親子亀より前、帆船時代も知ってます(古いよね)
プールからは海へも出られるようになっていて、カニをたくさん捕まえたり、桜貝を集めたり、なんだかのんびりした雰囲気でしたね
お昼には祖母がとうもろこしや枝豆やおにぎりを差し入れしてくれました
まだまだ海岸にも竹で編んだ防砂壁?がたくさん立っている・・・そんな時代です
うちからプールまで・・・
現在はプールもなくなり、サーファーが多く通る道ですが
その当時は一軒一軒の敷地も200坪とか300坪とかあり、松でうっそうとしていて、うちから3軒くらいで海でした
そうそう海に出る通りのちょうど角に「紫婦人の家」と呼んでいた広大なお屋敷がありました
今は大きなマンションになってしまっていますが、あの方はどなただったのかしら?
鵠沼海岸にはお風呂屋さんもあったのをご存知ですか?
現在の鵠沼公民館駐車場(当時公民館も木造)のお隣あたりの住宅地「松の湯」というお風呂屋さんでした
今も電柱に「松の湯」って書かれています
一度だけ、祖母宅のお風呂が壊れてしまって行ったことがあります
今でもあれば行く人も多いのではないかしら?と思うのですが、経営は大変なんでしょう
私の記憶の中の鵠沼海岸は静かで鬱蒼としていて、大きなお屋敷が並ぶ・・・そんな日常とはかけ離れたような場所です
でも時代は変わり、大きな家はなくなり今住んでいる横浜と街並みは変わらなくなりました
少しさみしい気はしますが、私のアトリエだって、いつまでもこのままではないでしょう
街はどんどん変わっていくのです
それは良いことでもあるのですから・・・
まあ祖母はとても寂しく思っているでしょうね
今でも夕暮れまでこの家にいると祖母の気配を感じますよ
母屋に入るとスッと姿を見ることもあります
位牌もそのままですしね
亡くなって6年たつけれど、中はほとんどそのままです
たぶん祖母はまだこの家で暮らしているんでしょう