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青天を衝くー渋沢栄一の生涯 新型コロナウイルスを歴史に学ぶ

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余話「渋沢栄一の生涯」第5話 渋沢栄一と天狗党①

2021年06月21日 | 渋沢栄一の生涯
余話「渋沢栄一の生涯」第5話 渋沢栄一と天狗党①
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明

元治元年(1864)5月、渋沢栄一は、一橋家の仕官の人選で関東に下り、従兄の渋沢喜作と共に武州、総州、野州の一橋領を100余日で巡回し、壮士約59人を募り、9月に壮士を率いて京都に帰りました。
しかし、江戸で「坂下門外の変」で老中安藤信正(平藩主)襲撃に加わった従兄の尾高長七郎の助命を嘆願しましたが許されませんでした。
9月、一橋家家老の平岡円四郎が暗殺されました。平岡に代わり、黒川嘉兵衛が重臣となました。黒川は、浦賀奉行組頭で、ペリー来航の事務折衝にあたり、下田奉行組頭の時に、密航をくわだてた吉田松陰を尋問しております。「安政の大獄」で免職されますが、のち慶喜公につかえ,徳川家の目付となった人物です。栄一たちが帰京すると、黒川は、平岡と同じく栄一の手腕を高く評価しております。
12月に「天狗党の乱」挙兵の水戸藩家老、武田耕雲斎等が、中山道を通り、京都に入ろうとします。将軍摂政の一橋慶喜公は、渋沢栄一、渋沢喜作に、天狗党鎮撫の命を下しました。
※黒川嘉兵衛嘉永6年(1853年)浦賀奉行組頭として黒船来航に対処したのを皮切りに、翌嘉永7年(1854年)の再来航に際しても交渉事務を担当し、下田奉行組頭も歴任する。しかし安政5年(1858年)より始まった安政の大獄によって免職させられ、差控となった。 

文久3年(1863年)一橋家に用人見習として取り立てられ、翌文久4年(1864年)には番頭兼用人となり、以後は一橋家側用人・平岡円四郎らとともに徳川慶喜の政治活動を補佐した。慶応2年(1866年)にいったん失脚して一橋家を致仕したが、慶応4年(1868年)再び慶喜に仕え、鳥羽・伏見の戦いに敗れて謹慎する慶喜の助命嘆願のために上洛し、同年2月には目付となった。晩年は京都で過ごした。 

幕末の幕臣。嘉永6(1853)年浦賀奉行組頭。翌安政1(1854)年にペリーが再来した際,その交渉事務を担当,次いで吉田松陰の海外渡航未遂事件でこれの訊問に当たった。安政の大獄で免職・差控に処せられたが,文久3(1863)年7月一橋家用人見習に採用され,翌元治1(1864)年2月番頭兼用人,平岡円四郎と共に徳川慶喜を補佐した。慶応2(1866)年8月疎まれて一橋家用人を去る。鳥羽・伏見の戦の後の明治1(1868)年2月目付に登用され,上洛して徳川救済の嘆願を行った。晩年は京に住み,末路は不明。 嘉永7年(1854年)、マシュー・ペリーの配下の写真家エリファレット・ブラウン・ジュニアによって撮影された黒川の銀板写真は、外国人が日本国内で日本人を撮影した現存最古の写真の一枚として、2006年に重要文化財に指定された。

※尊王攘夷論の提唱者藤田東湖
水戸藩は徳川御三家の一つである。徳川御三家とは尾張藩、紀州藩、水戸藩の三藩である。
尾張藩、紀州藩からは徳川幕府の将軍職に就けるが水戸藩からは将軍になることは出来ない。水戸藩主は江戸徳川将軍の副将軍・後見役として関東の「押さえ」の役割が与えられた。
水戸藩の成立は徳川家康の11子徳川頼房を祖とする祿高は三十五万石の大藩である。三代水戸藩主徳川光圀(水戸黄門)のもとで「大日本史」の編纂が始まる。この大日本史編纂は、明暦3年(1657)から始まり明治39年(1890)まで250年かけて完成された。
水戸学は大日本史編纂の過程の中で成立した学風で、幕府の官学である朱子学に国学神道の『尊王思想』を加味したものである。徳川幕府は一時的に政権を天皇より預かり、日本国は天皇が治めるとの考えに立つものである。幕末になり水戸第9代藩主徳川斉昭(烈公)によって水戸学は一段と盛になる。水戸藩校・弘道館において後期水戸学の創唱者の藤田幽谷・藤田東湖(幽谷の次男)父子・水戸藩士会沢正志斎が熱烈な尊王論を説いた。
会沢正志斎は文政8年(1825)「新論」を著した。新論は徳川幕府が異国船打払令を発布し、これお好機に国家の統一を強化し、政治改革と軍備充実の具体策を述べたものである。異国船払令は、外国船がしばしば来訪し上陸や暴行事件、特にフェートン号事件が発生したことに対し、江戸幕府が文政8年(1825)に発した外国船追放令である。文化5年(1808)英国軍艦フェートン号がオランダ船を追って長崎港に侵入し、オランダ商館員を捕らえ、食糧・薪水を強要した事件。
日本の沿岸に接近する外国船は、見つけ次第に砲撃し、追い返した。また上陸した外国人については逮捕を命じている。民心の糾合の必要性を論じ、その方策として尊王攘夷思想の重要性を説いた。この改革推進のために徳川斉昭は城内の北に藩校弘道館を建設した。藤田幽谷、東湖父子は水戸藩の藩主継承問題では徳川斉昭の擁立に尽力し、斉昭が藩主に就任すると腹心として藩政の改革を押し進めた。藤田幽谷亡き後水戸藩士の藤田東湖は徳川斉昭が進める幕府改革のシンクタンクとして貢献した。 


余話「渋沢栄一の生涯」(4話)渋沢栄一と平岡円四郎①

2021年06月17日 | 渋沢栄一の生涯
余話「渋沢栄一の生涯」第4話 渋沢栄一と平岡円四郎
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
  
 文久3年(1863)、23歳の渋沢栄一は、攘夷を目指すようになり、武器を収集し高崎城を乗っ取り、そこから横浜外国人居留地を襲撃する計画を立てました。これに待ったをかけたのが、渋沢の従兄、尾高長七郎でした。
長七郎は尊攘派の水戸浪士6人が老中安藤信正(磐城平藩主)を襲撃し、負傷させた事件「坂下門外の変」の関係者の一人でした。襲撃に失敗し京都に潜伏し、政情に詳しく「内密であっても、萇府の目は届く、この計画で本当に国を変えることが出来るのか」と涙ながらに説得し、栄一達は計画を取り止めました。
 尾高長七郎は、「坂下門外の変」で一橋家の平岡円四郎の知遇を得ていました。11月8日、従兄の渋沢喜作と伊勢参宮を名目に郷里を離れ、江戸を経て一橋家の平岡円四郎の家来の手形で箱根の関を越え、11月25日に京都に着き、直ちに勤王の志士たちと交遊し、歳末に伊勢大神宮に参拝しました。
 元治元年(1864)2月8日、長七郎、栄一と従兄の渋沢喜作の攘夷計画の書簡を懐中に入れ捕縛覚悟で平岡円四郎に面会しました。円四郎は、栄一らを助けようと一橋家に推挙し、栄一、喜作は一橋冢に仕官することが出来ました。
 平岡円四郎は、文政5年(1822)生まれ、一橋家の家臣渋沢栄一を採用した一橋冢家臣(家老並)で一橋慶喜公より15歳程年上の有能な家臣です。
 聡明で、藤田東湖や川路聖謨からその才能が認められ、慶喜公の側近になりました。文久2年(1862)、慶喜公が将軍後見職に就任すると、上洛し、「公武合体派」諸侯のまとめ役となりました。元治元年(1864)2月、側用人番頭、5月に「一橋家家老並」に任命されましたが、6月14日、在京の水戸藩士の内紛で暗殺されます。享年43。
 筆者の学んだ、茨城大学瀬谷吉彦教授の「水戸学」の講義で「平岡円四郎は、暗殺されなければ幕末の歴史は変わった」話されました。
 平岡に採用された栄一は、元治元年2月8日、奥口番の「御用談所下役」に命ぜられ、続いて4月中旬に「御徒士」に取り立てられます。
 直ちに、栄一は、平岡の密旨を承けて大阪に赴き海防論者の折田要蔵の門人になりました。
 要蔵は、文政8年(1825)生まれの薩摩藩士、幕府学問所昌平黌に入り、箕作阮甫に蘭学を学び、文久3年(1863)の薩英戦争で砲台の築造、大砲鋳造の主事となりました。
 「攘夷鎖港」を唱え、外国と戦争をする時には、大阪の海防が必要であると唱えます。
 築城学に長じ、幕府から100人扶持を受け、「摂海防禦砲台築造御用掛」になります。
築城学者で、島津藩国父、島津久光の建議の折、摂海防衛の問題で、二条城へ要蔵を召されて、一橋公を始め、老中の板倉摂津守らが意見を聴問しております。
江戸湾を初め、大阪の海防、船の数など「御台場築造掛」として、大阪に15か所の砲台を築くことなど指図をしました。
栄一は要蔵の海防論を学び4月京都に戻りました。
 そして、薩摩藩士、西郷隆盛(38歳)の旅宿「相国寺」に訪ねます。24歳の渋沢栄一は、豚鍋の接待を受け国論の「尊王攘夷」を談判しました。             

※平岡円四郎
平岡円四郎は、旗本の岡本近江守の四男として生まれた。父は勘定奉行配下の役人でしたが、優れた漢詩を詠むことで、岡本花亭という名でも知られた文化人でした。
養子として旗本の平岡家を継いだ円四郎は、幕臣の川路聖謨や、水戸藩の藤田東湖などの傑出した人物から才能を見いだされ、一橋慶喜公の小姓に推薦されました。

慶喜公は聡明で、側近に支えられないでも一人歩きが出来る人でした。それだけに働きがいがないと、円四郎は感じていたようです。しかし、慶喜の非凡さを悟ってからは、熱心に活動を下支えするようになりました。

※次期将軍の座を巡る争い
平岡円四郎は、維新史料綱要という幕末史の基礎的史料に何度か登場しています。初登場は安政5年(1858)3月のことです。慶喜公が将軍家の養子となることを固辞していることについて、福井藩士の中根雪江、水戸藩士の安島帯刀が円四郎の屋敷に集い、密議したということが載っています。
ゆくゆくは慶喜公に将軍職を嗣がせる含みを持たせながら一橋家の養子とした12代将軍の家慶は、後継問題を曖昧にしたまま病没し、13代将軍の座についたのは家慶の実子の家定でした。家定は病弱なため実子をもうけることが期待できなかったので、つぎこそ慶喜を将軍の座につかせるチャンスでした。しかし、肝心な慶喜にその気がないのでは、ともあれ円四郎たちは一橋派として慶喜公を次期将軍に推しはじめました。

ところが、この前年に安政の改革を主導した老中、阿部正弘が病没しており、守旧派の巻き返しが始っていました。中途で終わった安政の改革では、これまで発言の機会が与えられなかった外様の諸藩にまで意見の表明を求めるなど、老中による密室政治を打破しようとしていましたが、それに対する反発もあったのです。
彦根藩主の井伊直弼、会津藩主・松平容保らは親藩および譜代による権力独占への回帰を主張しており、まだ幼くて政治に口を出しそうにない紀州徳川家の慶福を将軍に据えようとする南紀派でした。

対する一橋派は、改革路線の継続を望んだ薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内豊信ら、外様大名が多数を占めていました。
こうした争いでは、誰を味方にするかが重要な意味を持ちます。暴挙を企てる者が味方にいたのでは、かえって窮地に陥ることになりかねません。

維新史料綱要には、安政5年6月に、時勢を慨嘆する水戸藩士らが幕府の要人に対して「除奸」を計画しているとの情報を、円四郎が中根雪江に伝えていることが記されています。
安政5年(1858年)に徳川家定の将軍継嗣をめぐっての争いが起こったときには、平岡と中根長十郎(一橋家家老)は主君の慶喜を将軍に擁立しようと奔走したが、将軍には徳川慶福(紀州藩主)が擁立されてしまい、失敗する。しかも直後の安政の大獄では、大老・井伊直弼から一橋派の危険人物として処分され、小十人組に左遷された。安政6年(1859年)、甲府勝手小普請にされる。

文久2年(1862年)12月、慶喜が将軍後見職に就任すると江戸に戻る。文久3年(1863年)4月、勘定奉行所留役当分助となり、翌月一橋家用人として復帰した。この年、慶喜の上洛にも随行している。京都で慶喜は公武合体派諸侯の中心となるが、裏で動いているのは平岡と用人の黒川嘉兵衛と見なされた。慶喜からの信任は厚く、元治元年(1864年)2月、側用人番頭を兼務、5月に一橋家家老並に任命される。6月2日には慶喜の請願により大夫となり、近江守に叙任される。その2週間後の6月14日、在京水戸藩士江幡広光、林忠五郎らに暗殺されました。享年43。




余話、渋沢栄一の生涯(3話)  渋沢栄一の従兄渋沢喜作(渋沢成一郎)

2021年06月15日 | 渋沢栄一の生涯
余話、渋沢栄一の生涯(3話)
 渋沢栄一の従兄渋沢喜作(渋沢成一郎)

伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明

大河ドラマに渋沢栄一の従兄、渋沢喜作が登場している。共に徳川慶喜公の家臣として活躍している。
人物像を紹介してみる。
渋沢栄一と渋沢喜作
渋沢喜作(成一郎)、天保9.6.10(1838.7.30)生まれ、大正1.8.29(1912)没、75歳
武蔵国(埼玉県)の渋沢文左衛門の長男。渋沢栄一の従兄。幕末、成一郎と称した。明治元(1864)年渋沢栄一と共に一橋家に仕官し, 平岡円四郎の推挙により、従弟の渋沢栄一とともに一橋家につかえ,幕臣となる。一橋(徳川)慶喜公の将軍就任と共に幕臣となり奥右筆を務める。
明治元(1868)年同志と共に彰義隊を組織したが,脱隊して振武軍をつくり,埼玉の飯能で官軍と戦う。その後箱館の五稜郭の榎本武揚軍に加わる。

戊辰戦争
渋沢成一郎は、慶応4年(1868年)、戊辰戦争が起こると、鳥羽・伏見の戦いに参戦した。江戸帰還後、将軍警護を主張し、自分と志を同じくする幕臣らを集め、彰義隊を結成し、頭取に就任する。
3月、結城藩の青山隼太らに依頼され、同藩の内紛仲裁のため、織田主膳を隊長とした一隊を結城に派遣した(のちの結城戦争に発展する)。
4月、徳川慶喜公が謹慎場所を江戸から水戸へ移すと、上野からの撤退を主張するが、武闘派の副頭取・天野八郎との対立が発生し、渋沢成一郎が一橋家の家臣として江戸の街を戦禍から守ことから結成された彰義隊は、天野八郎らの強硬派と対立し彰義隊を脱退したのではないかと推測される。

脱退後、有志とともに田無に集まり振武軍を結成し、5月11日、武蔵国入間郡飯能(現埼玉県飯能市)の能仁寺を本営を移した。
5月23日、大村藩、佐賀藩、久留米藩、佐土原藩、岡山藩、川越藩からなる官軍と戦うが敗戦、上州伊香保(現群馬県渋川市)に逃れ、草津に潜伏した後、榎本艦隊に合流する。8月、振武軍の残党と彰義隊の残党が合体し、新たな「彰義隊」を結成、その頭となる。
榎本武揚率いる旧幕府脱走軍とともに蝦夷地に行き、箱館戦争に参戦する。11月5日、勤王派が実権を握り新政府側に付いた松前城を攻撃した際、渋沢が先陣争いの戦闘に参加せず松前城の金蔵から金を持ち出す軍資金確保を優先したことをきっかけに、彰義隊は渋沢派と反渋沢派に分裂する。榎本武揚が仲裁に乗り出し、渋沢派は「小彰義隊」となり、渋沢が頭取に就任した。 渋沢成一郎が松前藩攻撃で軍資金を確保することを第1の目標にした行為は、理解できないことではないが武士道に反する行為があったことでもあり残念なことあである。
箱館戦争終結直前の明治2年(1869年)5月15日に旧幕府軍を脱走、湯の川方面に潜伏したが、1か月後の6月18日、出頭・投降した。その後、東京の軍務官糾問所に投獄されている。
明治4年渋沢栄一の計らいで大蔵省入省後,製糸法の調査研究のためヨーロッパに留学。帰国後6年退省し小野組糸店に入社。翌年明治7年渋沢商店を開業,横浜に生糸売り込み問屋を,東京深川に廻米問屋を営む。米相場などの投機事業家の側面を持つ人物であった。東京株式取引所理事長。通称は成一郎 (渋沢喜作)




余話、渋沢栄一の生涯(2話)  渋沢栄一の学問の師、尾高惇忠、海保漁村(元備)

2021年06月12日 | 渋沢栄一の生涯
余話、渋沢栄一の生涯(2話)
 渋沢栄一の学問の師、尾高惇忠、海保漁村(元備)

伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明

渋沢栄一は、天保11年(1840)の生まれ。生家は血洗島村に10数軒ある渋沢家の宗家(渋沢3家の中ノ家)で、当主は代々、市郎右衛門と称し有数の家柄でした。
栄一の父は、渋沢家の婿養子で、性格は非常に真面目、些細なことでも几帳面な人でした。
勤勉家で、農業をはじめ、養蚕、藍の製造、販売、村人に金の融通もするなど、農、工、商、金融業を営んでいました。この様な家庭環境の中で栄一は育ちました。 また、父の市郎右衛門は、初めは武家になって身を立てようとしたこともあり、武芸はもちろん、学問も四書五経に通じ、俳諧の号は「晩香」と称しておりました。
栄一が6歳になると、父が自ら漢籍の素読を教えました。栄一は、卓越した記憶力を持ち、知識欲も盛んだったため、1年の間に、孝経、小学、大学、中庸と進み、ついには論語にまで及んだと云われています。 
7歳になると隣村の従兄で10歳ほど年上の尾高惇忠の許へ通い、四書五経のほかにも『国史略』『日本外史』なども学びました。 尾高は、学問を好み、博覧強記で志士的な風格も備えていた人です。
栄一は、剣術も12歳頃から学び、稽古にも熱心で上達も速く後に千葉道場に入門します。

※渋沢栄一と尾高惇忠(あつただ)
父の市郎右衛門は、初めは武家になって身を立てようとしたこともあり、武芸はもちろん、学問も四書五経に通じ、俳諧の号は「晩香」と称しておりました。
渋沢栄一が6歳になると、父が自ら漢籍の素読を教えました。栄一は、卓越した記憶力を持ち、知識欲も盛んだったため、1年の間に、孝経、小学、大学、中庸と進み、ついには論語にまで及んだと云われています。 豪農、豪商である渋沢家は、学問の大切が理解できる家柄であることが解ります。
7歳になると隣村の従兄で10歳ほど年上の尾高惇忠(ただあつ)の許へ通い、四書五経のほかにも『国史略』『日本外史』なども学びました。 尾高は、学問を好み、博覧強記で志士的な風格も備えていた人です。
大河ドラマでは尾高惇忠は、「水戸学」の水戸藩主徳川斉昭、藤田東湖、武田耕雲斎らを尊敬していた様子が描かれています。
栄一は、剣術も12歳頃から学び、稽古にも熱心で上達も速く後に千葉道場に入門します。
※渋沢栄一の剣術は、川越藩剣術指南役の神道無念流・大川平兵衛に学んだ。 のちに、江戸遊学では神田お玉が池の北辰一刀流千葉道場で、千葉周作の息子の栄次郎について学んだと云われています。

※四書五経とは
中国における,重要古典の名数的呼称。四書とは《大学》《中庸》《論語》《孟子》。この称は宋の程頤(伊川)が《大学》《中庸》の2編を《礼記》中から独立させ,《論語》《孟子》に配したのに始まり,朱子学の聖典とされる。五経とは《易経》《書経》《詩経》《礼記》《春秋》の五つで,儒教における最も重要な経典。五経の名は唐の太宗が《五経正義》を作らせた時に定まったという。

※渋沢栄一の師、海保漁村(元備)
江戸後期の儒学者。名は元備、字は郷老、春農。通称は彦三郎、別名を紀之、漁村は号。寛政10年11月22日、上総国武射(むさ)郡北清水村(千葉県山武(さんぶ)郡横芝光町)に生まれる。父は恭斎(きょうさい)、母は北田氏。3男1女中の三男。初め父について漢文の訓読を習い、1821年(文政4)江戸に出て太田錦城(きんじょう)に入門し、折衷学を学ぶ。1830年(天保1)江戸下谷(東京都台東区)で家塾を開き、その書斎を掃葉軒(そうようけん)とよぶ。佐竹壱岐守(いきのかみ)をはじめ諸侯に招かれたが仕えず、1857年(安政4)幕府に登用されて医学館の儒学教授となる。武士以外を教授にした初めての例という。慶応(けいおう)2年9月18日没、69歳。本所(東京都墨田区)の天台宗高竜山普賢(ふげん)寺(現在、東京都府中市に移転)に葬られる。学風は経学を重んじ、初め古注・新注を併用したが、しだいに古注に傾き、自宅を伝経盧(でんけいろ)と名づけた。著書に『周易(しゅうえき)漢注考』『尚書漢注攷(こう)』『毛鄭(もうてい)詩義』『伝経盧叢鈔(そうしょう)』などがある。

※尾高忠淳は、天保1.7.27(1830.9.13)生まれ 明治34.1.2(1901)没72歳
渋沢栄一の従兄であり、官営富岡製糸場の初代所長,明治前期の殖産興業推進者。武蔵国榛沢郡手計村(深谷市)の名主尾高保孝の子。幼名新五郎,字は子行,藍香と号した。
明治元年(1868)年彰義隊に参加するが脱退,その後振武軍に加わり官軍と戦って敗退。箱館戦争に渋沢成一郎と参戦している。
維新後は明治2年静岡藩勧業付属,3年民部省監督権少佑,次いで大蔵省製糸場の計画を担当した渋沢栄一の漢学の師であり,義兄に当たる(妹千代が栄一の最初の夫人)ことから,同省勧業寮富岡製糸場掛(のち勧業大属)となり,渋沢栄一とともに官営富岡製糸場の建設につくして所長となり, 建設,経営に尽力し養蚕,製糸の振興につとめる。のち第一国立銀行につとめるかたわら,製藍(せいらん)法の改良,研究をおこなった。
長女勇は伝習工女に志願してこれに協力した。また秋蚕の飼育法を研究し,その普及に努力した。9年末同製糸場を辞し,翌年から第一国立銀行盛岡支店,仙台支店に勤めるかたわら,製藍法の改良普及にも尽くし,著書に『蚕桑長策』(1889),『藍作指要』(1890),がある。 



余話「渋沢栄一の生涯」(1話)渋沢家の一族

2021年06月11日 | 渋沢栄一の生涯
余話渋沢栄一の生涯(1話)

渋沢栄一を取り巻く人々 
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明

渋沢栄一は、天保11年(1840)2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市)に養蚕と製藍を営む父、渋沢市郎右衛門 、母、栄の長男として生まれました。幼名は市三郎、6歳の時に母の名をとって栄治郎と名付けられた。
生家は血洗島村に10数軒ある渋沢家の宗家(渋沢3家の中ノ家)で、当主は代々、市郎右衛門と称し有数の家柄でした。
地名の血洗島とは「赤城山の山霊が他の山霊と戦って片腕を砕かれた。その傷口をこの池で洗ったとの伝説の地です。古代、この地は、利根川の地域で、寛政時代には50戸、大正の頃は63戸の村落です。渋沢家は清和源氏で足利一族と云われています。
栄一の父は、渋沢家の婿養子で、性格は非常に真面目、些細なことでも几帳面な人でした。
勤勉家で、農業をはじめ、養蚕、藍の製造、販売、村人に金の融通もするなど、農、工、商、金融業を営んでいました。この様な家庭環境の中で栄一は育ちました。 また、父の市郎右衛門は、初めは武家になって身を立てようとしたこともあり、武芸はもちろん、学問も四書五経に通じ、俳諧の号は「晩香」と称しておりました。
栄一が6歳になると、父が自ら漢籍の素読を教えました。栄一は、卓越した記憶力を持ち、知識欲も盛んだったため、1年の間に、孝経、小学、大学、中庸と進み、ついには論語にまで及んだと云われています。 
7歳になると隣村の従兄で10歳ほど年上の尾高惇忠の許へ通い、四書五経のほかにも『国史略』『日本外史』なども学びました。 尾高は、学問を好み、博覧強記で志士的な風格も備えていた人です。
栄一は、剣術も12歳頃から学び、稽古にも熱心で上達も速く後に千葉道場に入門します。
 14歳になると、近村を回り、家業の藍の製造に欠かせない藍葉の買い付を行い、商売を初めます。渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕の他に、麦、野菜の生産も手がけ、原料の買い入れと販売を担うため、常に算盤(ソロバン)をはじく商業的な才覚が求められました。栄一も、父と共に信州や上州まで藍を売り歩き、藍葉を仕入れる作業も行いました。14歳の時からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、この時の経験が徳川慶喜公の命でバリ万国博覧会に赴き、ヨーロッパの経済システムを学び、後の現実的な合理主義思想に繋がったと云われております。
安政5年(1858)一般的な名を栄一郎と改め、本名を栄一としました。同年の12月に尾高の従妹の千代と結婚します。 
文久3年(1863)は、栄一の生涯を通してもっとも特筆すべき年でありました。嘉永6年(1853)のペリー艦隊来航を機に鎖国体制は終わり、安政5年に幕府は、米国等と修好通商条約を結びました。
開港と自由貿易により政局と経済は混乱し、外国人排撃を唱える攘夷論が尊王論と結びつき過激化し、文久3年には朝廷が幕府に攘夷の実行を迫るなど、尊王攘夷運動が高揚して来ました。これらの動きに呼応して、血気盛んな栄一は従兄の尾高惇忠、渋沢喜作と共に攘夷決行の高崎城攻略、横浜焼き討ちの計画の密議したのです。

渋沢栄一の一族
◎先妻の千代
渋沢栄一の妻、ちよ(1841年 - 1882年) - 千代、千代子とも表記されています。渋沢歌子、琴子、篤二の母。尾高惇忠の妹であり、栄一とは従兄妹同士。30歳の時、コレラで死亡しました。
夭逝した子供、庶子を含めると多数の子女がいたが、嫡出の7人の子女とその配偶者およびその子女によって渋沢同族会が組織されました。 
◎      長男:市太郎(1862年) - 母は千代。夭逝[。
◎      長女:歌子(1863年 - 1932年) - 母は同上。宇多とも表記される。法学者で後に東京大学法学部長、男爵、枢密院議長となる穂積陳重に嫁ぐ。著書に『穂積歌子日記』みすず書房。
◎      二女:琴子(1870年 - 1925年) - 母は同上。こととも表記される。大蔵官僚で後に大蔵次官、大蔵大臣、東京市長、子爵、龍門社理事長となった阪谷芳郎子爵に17歳で嫁ぐ。
◎      三女:伊登[(1871年 - 1872年) - 母は同上。夭逝。
◎ 次男:篤二[45] (1872年 - 1932年) - 母は同上。澁澤倉庫会長、妻は公家華族橋本実梁伯爵の娘敦子。渋沢家嫡男であったが1913年に廃嫡となり、18歳となった長男の敬三が嫡孫となる。理由は諸説あり定かではない。新橋の芸者・玉蝶との遊蕩を理由との説もあるが、事業家というより感性豊かな芸術家肌で、一族を統べるには蒲柳の質が心配されており、栄一は自身の没後の異母弟らとの家督を巡る争いの芽を事前に摘むための措置を取ったとも考えられている。
◎      三男:無相真幻大童子(1883年) - 母は兼子。生後すぐに逝去。
◎      四男:敬三郎(1884年‐1885年) - 母は同上。夭逝。
◎      五男:武之助 (1886年‐1946年) - 石川島飛行機製作所2代目社長。母は同上。妻は資生堂創業者福原有信の四女美枝。
◎      四女:止観妙心大童女(1887年) - 母は同上。死産。
•        六男:正雄[1888年 - 1942年) - 母は同上。日本製鐵副社長。石川島飛行機製作所初代社長[、石川島造船所専務。
◎      五女:愛子(1890年 - ?) - 母は同上。愛とも表記される。銀行家で後に澁澤倉庫会長、第一銀行頭取、龍門社理事長となった明石照男に嫁ぐ。
◎      七男:秀雄[(1893年 - 1984年) - 母は同上。田園都市開発取締役、東京宝塚劇場会長、東宝取締役会長。庶子を除き子女の中では、唯一長寿を全うした。また、末兄・武之助と共に第二次世界大戦を生き抜いた人物でもある。
◎      八男:遍照芳光大童子(1895年) - 母は同上。死産。
◎      九男:忠雄[45](1896年 - 1897年)。母は同上。夭逝[。
◎      庶子:文子(1871年-?) - 母は大内くに(1853年 - ?[60])。後に東洋生命社長、武州銀行頭取となった尾高次郎に嫁ぐ。次郎は栄一の妻千代の兄尾高惇忠の子。
◎      庶子:照子(1875年- 1927年) - 母は大内くに。後に富士製紙社長、武州銀行頭取となった大川平三郎に嫁ぐ。平三郎は栄一の妻千代の姉の子。
◎      庶子:星野辰雄(1893年 - ?) - 東京印刷社長・星野錫の養子となる。立教大学教授、専門は商法、フランス法。栄一の長女歌子の夫穂積陳重の弟穂積八束の次女と結婚。
◎      庶子:長谷川重三郎(1908年 - 1985年) -第一銀行頭取。
◎      養子:平九郎(1847年 - 1868年) - 栄一の妻千代の弟。栄一が幕末の洋行に際し不測の事態でも家系が断絶しない様に見立て養子としたが、栄一帰国前に飯能戦争で新政府軍に敗れて自決しました。。


福島の焼き物と窯「焼き物の起源」(3)

2021年06月09日 | 福島の焼き物と窯
焼き物の起源(縄文式土器)
宮城城県中田町には「東北縄文式土器記念館」がある。酒蔵を改良して作られた展示資料館で東北地方で縄文土器を見ることが出来る。




◎三内丸山遺跡

ついで紀元前300年から紀元300年頃まで作られていた弥生式土器は、縄文式土器に比べると文様も形もシンプルであるがその形状はさらに優美なもとなる。
(弥生式土器)

弥生式土器は1884年(明治17年)東京都文京区向が岡弥生町で出土した1個の壺が従来知られている縄文式土器と異なった形状のものとして注目し研究の結果弥生式土器として定義された。すなわち縄文式土器時代に後続し、古墳時代に先行する時代を弥生式時代と呼ぶようになった。こん時代には大陸から水稲耕作が伝えられ・金属の精練加工や紡織技術など高度の文化がもたらされた。
弥生式土器は壺・かめ・鉢・高杯などが主な出土品であるが、壺は球形・偏平で頸部が括れ再び口縁部が開いている。口縁部は水平なものが多い。壺には高さ数十センチのものから1メートルを越えるものまで有る。壺は各器種の中でもつとも飾られることの多い土器であるが、壺の用途は貯蔵であり、米・穀類・桃・貝などを入れた。
大型のかめは埋葬のための棺として転用された。
弥生式土器の装飾には沈文が多く見られる。箆描き文・沈線文(前期)・櫛描き文(中期)が多い。この他竹官文・貝殻文も有る。特種なものとしては器の表面に鹿・鳥・船・倉庫などを線書きした原始絵画も見られる。九州の吉野狩り遺跡での建物の原始絵画はとみに有名である。
弥生式土器の制作にロクロが使われたとの解釈は過去のものとなった。その制作技術は縄文土器の場合と同様粘土を輪積みにして成型したものである。しかし、機内地方を中心に前期終りから中期末にかけて、土器の形成・装飾に回転台を用い形跡が有る。

◎東北陶磁器会館

縄文土器は植物の葉の上に粘土を乗せ葉を回転させながら形を整えたものと思われる。弥生式土器の一部にロクロまでは行かないが木の板を用い回転出来る道具を工夫したのではないだろうか。
古墳時代になると前代の流れを組むはじきが作られ始め、しばらくして、大陸より渡来した人達によって新しい技術が伝えられ、奈良・平安・鎌倉時代にかけて全国各地で高温で焼くことが出来る窯とロクロの技法により、薄くしかも形のよい須恵器が作られるようになった。
須恵器とは5世紀から12世紀にかけてわが国で作られた陶質土器である。
始めて穴窯を用いたので、縄文や弥生式土器と違い高温を作り出すことが出来た。
およそ温度は1000度以上あり粘土が焼き締まり吸水性が少ない。この陶質土器の源流は中国殷時代に焼かれた灰陶の技法につながる。灰陶の技法は朝鮮半島に伝わり、5世紀始めには百済の地を中心に定着したものと思われる。まもなくその技法は新羅にと伝わり新羅焼きとなる。そして渡来人により日本に入り須恵器が誕生した。


須恵とは滋賀県蒲生郡竜王町須恵・日本書紀に垂仁天皇3年の条に見えている鏡谷の陶火との遺跡とある。また、須恵の地名は岡山県邑久群須恵町・福岡県粕屋群須恵町に見られる。いずれも須恵器の大窯業生産地である。
須恵器の用途は貯蔵用・供膳用・調理用・祭礼用などに分かれる。

◎須恵器高杯

須恵器の成型過程を見ると2段階に分けることが出来る。成型の1段階は、原則そして器の大小にかかわりなく、粘土紐を積み上げておおよその形を作る工程である。成型の2段階は、主として器の大きさに応じ成型技法が異なる。即ちかめなどの大型のものは輪積みにした粘土の紐のつなぎ目を叩き板を用い叩いて粘土を密着させる方法である。



◎須恵器
須恵器は、杯などの小型の器はロクロを用いて成型した。大型のかめ壺なども最終的には口作りにはロクロを用いて調整した。
須恵器を焼成した窯は、炊き口から煙出しまでトンエル状になった単室窯で炊き口から奥へ向かって燃焼部・焼成部・奥壁・煙出しと続く。窯本本体は完全に土中をくりぬいた地下式のものと、半地下式のものに分けられる。古墳時代の須恵器窯の大きさは全長10メートル前後、焼成部最大幅2メートル前後、床面より天井までの高さ1、5メートル前後あり、奈良・平安時代になるとこれより小さくなる。須恵器窯内部が階段状をなすものは、いずれも同時に瓦を焼いていた。また、須恵器窯は還元焼成で焼かれたといわれている。
最初は酸化焔で高温を作り出し、製品が焼き上がる頃を見計らい大量の薪を投入し酸素不足の状態になり鉄分が青灰色に発色するのである。
一方で大量の薪が使われることから灰が生まれ、その灰をかぶって自然釉の器が生まれた。この釉は燃料の薪が燃えてできた灰と土が溶け合ったものであるが、この釉薬を灰釉と呼ぶ。さらに意図的に灰釉をかけたものが生まれ、これを灰釉陶器と称した。

福島の焼き物と窯 焼き物の起源(2)

2021年06月01日 | 福島の焼き物と窯
焼き物の起源(縄文式土器)

縄文式土器を用いた地域では北は北海道から南は沖縄にまで及んでいる。しかし縄文を付けていない縄文式土器も多い。特に西日本の新しい縄文土器には縄文が見られない。
九州から出土する土器には貝殻を押しつけて装飾したものが見られる。
一方東日本の弥生式土器・続縄文式土器になどは盛んに縄文が使われている。
早世期・早期の縄文式土器は深鉢のみであり、特に尖底土器が主である。尖底土器は逆三角形をした器であり底部になるにしたって尖っているのでこの名が付いた。また、装飾が一種類に限られていることが多い。これらの深鉢は焚き火のために黒く変色している。このようなことから縄文式土器は、ドングリやトチの実・栗の実などの木の実を煮炊きに用いる土器として作られるたことが解る 。
縄文式土器はおよそ8000年の間使われていたが、その間には紋様も複雑化し中期には祭器に使われた火焔式土器のようなダイナミックで芸術性溢れるものが生まれた。
火炎式土器は中部関東地方において中期縄文式土器に見られる。躍動的な隆起線文様の発達によって縄文式土器の頂点を極めたといっても過言ではない。

◎青森県三内丸山遺跡
 令和3年5月、特別史跡三内丸山遺跡は、正式に世界遺産への推薦が決定しました。
 



福島の焼き物と窯「焼き物の起源」(1)

2021年05月30日 | 福島の焼き物と窯
焼き物の起源

日本で焼き物を作り始めた年代は、今のところ1万2千年前といわれている。それまで狩りで取った動物の肉を植物の葉で包み蒸して加工することをしていた人類は、土器の発明により食べ物を煮るという加工技術を知ることになる。
それは原始的な土器に見られるような粗雑なものであったが、この文化は縄文式土器、弥生式土器へと発展してゆく。人間が火をコントロールすることができるようになって文明が生まれた。縄文式土器が焼かれた温度は約500度から600度、弥生式土器が焼かれた温度は約600度やら700度である。
さらに大陸から伝えられた須恵器は千度以上の高温で焼かれた。
日本で一番古い縄文式土器は、今のところ、1万2千年前(現在の考古学の発達は縄文時代を1万3千年前とする説が有力である)と見られている。長崎県の泉福寺洞窟より出土した豆枝式土器である。この年代測定には炭素14などの放射性同位元素を使って測定されている。その他に現在の考古学の年代考証には最先端技術を駆使し、より正確なクロスチェックが成されている。近年の遺伝子工学による遺伝子地図の解明により、栗が植培され食料として食べられていたことや、稲が渡来し日本国内に伝播していった経路を克明に解析してくれる時代となった。
縄文式土器とは、粘土紐を作り輪形に積み重ねて形にし、ならした粘土の表面に縄の文様をつけたことからその名をついた。
その紋様から押圧縄文・回転縄文・棒巻き回転縄文に分けられる。近年会津の昭和村の「からむし記念館」を尋ねる機会があつた。その折会館職員の方と親しく話しをする機会に恵まれた。
焼き物談義になり昔は縄を作るのに「からむしの紐」を寄り合わせて用いたとの話をお聞した。縄文人も「からむしの紐」を使い紋様をつけたのではないでしょうか」との話をお聞し興味をおぼえた。


◎縄文式土器、郡山市妙音寺遺跡、高さ50.4㎝


福島の焼き物と窯「福島の焼き物が各地へ(2)笠間焼、益子焼へ

2021年05月28日 | 福島の焼き物と窯
福島県内の窯が各地に伝わる。笠間焼、益子焼へ

笠間焼は茨城県笠間市の焼き物であるがその創業には諸説がある。明治末期より11年程前に信楽の陶工が来て焼いたとする説と相馬焼の工房の陶工が抜けだし友部町に窯を開いたとの説がある。

その製品は粗陶器で土瓶・土鍋・片口などで明治に入って瓶類を製造した。近年は東京から作家を目指す若者が移り住み芸術性の高い作風の焼き物を制作し芸城制のある焼き物を焼いていたが時代の変遷により焼き物の産地は寂れてしまっている。

益子焼は栃木県芳賀郡益子町の焼き物でセッ器物が多い。相馬より笠間に京窯の登り窯が伝えられ益子にも同じ構造の窯が造られた。益子は明治年間に大消費地東京を控え発展した。製品は水甕・片口・すり鉢・であったが土瓶の製造に始まり火鉢・湯たんぽ・花器なども盛んに造られた。
大正13年 浜田庄司が益子で民芸運動に実践者として焼き物を始めた。浜田は、世間の高い評価を受け多くの陶芸を志ざす陶工が集まった。益子は東京に近く、開放的で焼き物の材料も豊富にあり全国的は窯場となって行く。そして、民芸作家も多く現れ昭和50年、350軒の窯元があり、一大窯業地となった。

福島県内の各藩もこぞって製陶活動を奨励し、城下町に起こった白河焼、会津街道沿線の隠れ里の後藤焼・そして棚倉焼や三春丈六焼、さらに二本松万古焼、その流れを組む田島万古焼などが誕生した。



◎益子焼で大量の作られた土瓶は大堀相馬焼の技法であると云われたいる


福島の焼き物と窯「福島県内の焼き物が各地に伝わる(1)

2021年05月13日 | 福島の焼き物と窯
福島県内の窯が各地に伝わる(1)
小杉焼きは富山県射水市小杉地区で焼かれた焼き物である。同地の高畑与右衛門が1835年(天保6年)頃に開窯したといわれている。18歳で与右衛門は各地の窯場を訪ね修業し10余年の後相馬風の技法を身に付けて帰郷したという。
花瓶・水差し・茶碗・燭台・急須などがあり徳利の種類が多くあり知られている。
その釉は銅青磁釉(小杉青磁)や飴釉などが使われ焼かれた。4代継承されたが、瀬戸や有田の焼き物の流通により明治21年廃業したといわれている。

◎東北最古の焼き物と伝承されている古本郷焼(水野源左衛門作)



福島の焼き物と窯「ふくしま県内の窯と東北の窯」(1)

2021年04月12日 | 福島の焼き物と窯
福島県内の窯と東北の窯(1)

福島県内においても、全国的な焼き物の需要が高まり、その影響を受け、1640年代には本郷焼と相馬駒焼が始められた。本郷焼は、美濃の国(岐阜県)からやってきた水野源左衛門をその祖とし一方、相馬駒焼は京都の名工、野々村仁清に師事した相馬藩の藩士田代源吾衛門をその祖として発展を続けることになる。
もともと本郷焼は陶器が主流であるが、寛政12年(1800年)には、佐藤伊兵衛が西国(有田)で修業し帰国し白磁を焼くことに成功している。この二つの流れはやがていろいろな形で県内に波及し、ことに染め付け磁器はやがて本後焼きの主流になる。
また、江戸末期になると、本郷焼きの磁器の影響を受けて、会津若松の木村左内による蚕養焼(こがいやき)、長谷川兵夫による郡山市湖南町福良の福良焼、長沼町の矢部富右衛門による長沼焼などが生まれて来ることになる。
相馬駒焼は代々藩主の使う焼き物だけを焼く東北最古の登り窯であり、元録3年(1690年)頃になると、藩の殖産興業の一貫として民窯が相馬藩の中に広がり、大掘相馬焼が生まれた。この時代、還元炎焼成は行われず、黄瀬戸風の肌の合いに彩画した絵付けには芸術性の高いものが多い。また、東北の各窯場に影響を及ぼした。久慈焼(岩手県)・白岩焼(秋田県)また笠間焼(茨城県)益子焼(栃木県)等の各窯場にもこうした技術が導入され、強い影響力を及ぼした。
久慈焼は岩手県久慈市小久慈町の日常実用の陶器である。初代熊谷甚右衛門は相馬駒焼の田代窯に稲技を学び、1822年(文政5年)ころ帰国して窯を開いた。以後父子相伝で続けられる。
秋田県の白岩焼は楢岡焼と同系の「なまこ釉」が有名である。
現在の楢岡焼の窯元に尋ねると相馬焼との関係については「およそ百年前、半農半陶の民窯で飯鉢・片口・甕・すり鉢などを焼いた。相馬焼の技法をとりいれて楢岡焼き・白岩焼きが生まれた」との言い伝えではっきりしたことは解らなかった。
平清水焼は、山形県平清水の窯場である。窯場は千歳山の麓にあるところから千歳焼とも呼ばれた。文化年間に同村の丹羽治左衛門は陶業を始めようと隣村に済んでいた常陸の国の小野藤兵衛を招き、丸山の土で陶器を作った。1825年(文政8年)は相馬の安部覚左衛門を招き新窯が開かれた。昭和の初期には上り窯9、角窯3、上絵窯3があった。現在の窯元数は震災後の状況が把握できず解らない。
現在の平清水焼の青龍窯は丹羽治左衛門を祖とする。昭和60年代に当主の丹羽  氏にお目にかかると、「うちの窯は相馬焼きの技法であったが、長い歴史を経て、今の平清水焼は千歳山の陶石を使い、水簸して、梨地肌の半磁器をつくつています」との話しを伺った。梨地肌の壺はしっとりとした肌合いで手元に置きたい焼き物である。
成島焼きは山形県米沢市広幡町で水甕・片口・平鉢・飯茶碗などの黒釉の焼き物を焼いた。江戸時代に相馬駒焼きより技法が伝授されたという。
天保年間越後の国蒲原の二村為八は相馬焼の技法を習得して帰り、三根山藩の御用窯が生まれた。
東北の焼き物は宮城県中田町の「東北陶磁器会館」みることが出来る。
この陶磁器会館は東北大学の芹沢啓介先生のコレクションを元に収集し展示している。東北一の史料館でもある。



◎昭和60年代に執筆した「福島のやきものと窯」

福島の焼き物と窯(1) [焼き物に魅せられて」

2021年04月09日 | 福島の焼き物と窯
初めに

日本人の繊細な感性は四季の移り変わりのなかから生れたものである。この感性は次代の人達にも大切に受け継いで行かなければならない。
新型コロナウイルス感染拡大が続き、生活様式も大きく変わり、心の余裕もなくなり、文化芸術の良さが失われてきていることは誠に残念なことです。
人生のうち、最も感受性の強い中学・高校時代に創造性豊かな美術や音楽、日本の古典などに触れる必要があると思う。
私も中学生の頃から、奈良や京都の仏像、庭園などに興味を持ち日本の伝統文化の素晴らしさに直接触れて見たいとの思いがあった。
私ごとであるが、東京にいる伯父の故芳村伊左衛門は、長唄界の第一人者で若山富三郎や勝新太郎の兄弟子でもあった。
杵屋の社中で多くの門人を抱えていたが、松竹歌舞伎の世界では長唄・三味線を演じていた。
そのような環境にあったので、上京すると歌舞伎、能、狂言などにも関心を寄せ鑑賞をしていた。
大学では化学を専攻し原子や分子などのミクロの世界を覗いていた。およそ芸術とは縁のない理論や実験の学問なので、全く正反対のものに魅かれたのかも知れない。
陶芸を志したのは、幼い頃から時々母が立てくれたお茶の茶碗や茶道具などに触れたことがきっかけとなった。
お茶は裏千家の作法であったが、子供心に長時間和室に正座させられて足の痛みのみが、記憶に残っている。抹茶をいただく前のお菓子の甘さが魅力だったのかも知れない。
 そして何よりも焼き物の色の美しさと、陶器の肌の滑らかさに魅了され、焼き物の道に入った。
私の住んでいる福島県須賀川市岩瀬地方には古く江戸時代より焼かた長沼焼きがあった。そして東北地方の焼き物の源流は福島県にある。福島県内、東北地方の窯を訪ねてその歴史の流れをまとめてみた。
陶芸の道に入り、ロクロを引き始めて50年になるが、より焼き物の魅力にひきつけれれている。



◎例年より1週間早く満開となった自宅の桜(令和3年4月8日)

◎自宅の桜4月9日



「青天を衝け」と渋沢栄一(34話)完結 渋沢栄一がめざしたもの②

2020年12月22日 | 渋沢栄一の生涯
「青天を衝け」と渋沢栄一(34話) 渋沢栄一がめざしたもの②
令和2年12月21日(月)
マメタイムス新聞掲載 松宮輝明著
伊能忠敬研究会東北支部長
あさかの学園大学講師
安積歴史塾・二本松グレートアカデミー講師
旧長岡藩主牧野公奉賛会
松宮 輝明
渋沢栄一の生涯・青天を衝けを御覧いただきありがとうございました。
途中掲載を中断し、新型コロナウイルスの拡散止まらず急きょ「新型コロナウイルスを歴史に学ぶ」を掲載いたしました。
今後、渋沢栄一の生き方を新たな史料を基に執筆して行きたいと思います。ご支援のほどをお願い申し上げます。
(松宮輝明)


「青天を衝け」と渋沢栄一(33話) 渋沢栄一がめざしたもの①

2020年12月15日 | 渋沢栄一の生涯
「青天を衝け」と渋沢栄一(33話) 渋沢栄一がめざしたもの①
令和2年12月14日(月)
マメタイムス新聞掲載 松宮輝明著
伊能忠敬研究会東北支部長
あさかの学園大学講師
安積歴史塾・二本松グレートアカデミー講師
旧長岡藩主牧野公奉賛会
松宮 輝明



「青天を衝け」と渋沢栄一(32話) 渋沢栄一と民間欧米外交②

2020年12月08日 | 渋沢栄一の生涯
「青天を衝け」と渋沢栄一(32話)渋沢栄一と民間欧米外交②
令和2年12月7日(月)
マメタイムス新聞掲載 松宮輝明著
伊能忠敬研究会東北支部長
あさかの学園大学講師
安積歴史塾・二本松グレートアカデミー講師
旧長岡藩主牧野公奉賛会
松宮 輝明