須賀川市制50周年記念協賛事業
斎藤徳三郎・増渕元秀・松宮輝明指定三人展
会期 平成16年4月28(水)~5月7日(金)
会場 須賀川市牡丹園前 須賀川市産業会館会議室
主催 須賀川市文化団体連絡協議会・須賀川商工会議所
◎松宮輝明(陶芸)
須賀川市制50周年記念協賛事業
斎藤徳三郎・増渕元秀・松宮輝明指定三人展
会期 平成16年4月28(水)~5月7日(金)
会場 須賀川市牡丹園前 須賀川市産業会館会議室
主催 須賀川市文化団体連絡協議会・須賀川商工会議所
◎松宮輝明(陶芸)
須賀川市制50周年記念協賛事業
斎藤徳三郎・増渕元秀・松宮輝明指定三人展
会期 平成16年4月28(水)~5月7日(金)
会場 須賀川市牡丹園前 須賀川市産業会館会議室
主催 須賀川市文化団体連絡協議会・須賀川商工会議所
◎斎藤徳三郎(絵画)
須賀川市制50周年記念協賛事業
斎藤徳三郎・増渕元秀・松宮輝明指定三人展
会期 平成16年4月28(水)~5月7日(金)
会場 須賀川市牡丹園前 須賀川市産業会館会議室
主催 須賀川市文化団体連絡協議会・須賀川商工会議所
◎指定3人展に寄せてのお祝いのことば
増渕元秀と松宮輝明
須賀川出身で昭和15年生まれ。少年時代裏千家の茶をたしなむ母のお茶を味わい、茶道具を手にして育った。また、東京の叔父は長唄界で活躍し、芳村社中の芳村伊左衛門を襲名し、若山富三郎・勝新太郎兄弟の兄弟子であった。松竹歌舞伎で芳村社中の一門のリーダーとし長唄、三味線を演奏し活躍していた。永福町の叔父は清水建設の建築設計家で数寄屋作りを得意とした。叔母は鳴子のこけしの名工大沼新兵衛(佐多稲子の小説・『人形の家』のモデル)の娘なので古典的ものに興味を持ち育った。
昭和33年福島県立須賀川高校を卒業後、茨城大学に入学し水戸で4年間過ごした。その間、焼き物に興味を持ち、度々笠間の窯元を訪ね歩いた。
昭和38年大学卒業後福島県立須賀川女子高校の教壇に立ち物理・化学の講義をした。隣町・長沼に江戸時代初めに焼かれた古長沼焼きがあることを知り、「福島県の古窯の調査と復元」の研究をはじめた。化学的証明は日本大学工学部の高木昭教授の指導を受けた。釉薬・陶土の分析は菊池美子助手(後教授)が担当した。また、昭和46年陶芸の技を学ぶために大堀相馬焼窯元長橋明孝の元に弟子入りした。
◎増渕元秀氏との出会いで神奈川県美術展に出展
須賀川女子高校・安積高校・母校須賀川高校で化学の教師として教壇に立ちなから工芸美術についても講義した。昭和55年増淵元秀は牡丹園の開花時期に須賀川を訪れてた。そして突然松宮の自宅を訪ねてきた。
◎増渕元秀作の大作
「この町に焼き物を焼く者がいると聞く。どんな焼き物か見せくれ。」偉丈夫で色メガネを掛け黒の作務衣着の姿に圧倒され妻の冨久子が座敷に招きいれた。
◎増渕元秀親子と光男さん(冨美子さんの婿)
元秀との出会いにより作品は大きく変化した。それは、今までのロクロ成型の円形や楕円形の器から、造形的な作品への変化であった。生命が吹き込まれた作品が生まれた。
日輝展・一水会展・新槐樹社展・神奈川県展等に出展し続けた。 昭和60年には「長沼焼き考」「やきもの探訪」を基に、「ふくしまの焼き物と窯」を執筆出版した。同時に光風会展・新工芸美術展・日工会展に出展し現在は日工会会員となり、叩きの技法で日展に大作を出展し活躍している。
◎指定3人展会場(須賀川市産業会館)
◎増渕元秀作重量50キロの大作
恩師斉藤徳三郎・増淵元秀の精神「自然の摂理によって人は生きている。」との教えに従い制作している。釉薬の研究により作りだされた色彩鮮やかなロクロの作品と、叩きの技法を取り入れた「生命誕生」の造形作品に定評がある。
◎須賀川市制50周年記念行事協賛「斎藤徳三郎・増渕元秀・松宮輝明三人展」のテープカット
◎指定3人展鑑賞に訪れた茨城在住の増渕元秀先生親族
◎指定3人展でテープカットをいただいた須賀川美術協会小豆畑清種会長
◎指定3人展を祝いホテル虎屋での祝賀会で挨拶する深谷幸弘須賀川市商工会議所会頭
◎指定3人展を祈念して須賀川市に増渕元秀作、松宮輝明作を寄贈する
左は指定三人展実行委員会事務局長畑岡邦久氏
◎須賀川市制50周年記念「指定3人展」を記念し須賀川市に寄贈された増渕元秀作品
「須賀川市立博物館」に展示
◎須賀川市制50周年記念師弟3人展を記念し須賀川市に寄贈された松宮輝明作品
「須賀川市立芭蕉記念館」展示
増渕元秀と一人娘冨美子
増淵元秀の一人娘冨美子は作陶の様了を次の様に述べている。「父が陶芸を本格的に展覧会に出しはじめたのは私か小学校4~5年生の頃からだと思います。年に2回、春と秋の展覧会に向けて、真冬と真夏の。番気候の厳しい時期に2~3ヶ月にわたって制作していました。
◎増渕家右より増渕マサ江、増渕元秀、増渕富美子
父の作品をご覧になった方は、迫力と地の底から突き出てくるようなエネルギーに圧倒されたと思います。しかし、そこには想像を絶する親子の葛藤がありました。
父が制作をする時期になると気持ちを自ら高揚させていくので父の形相まで変ってきます。
このような状態になると制作に入って行くわけですから、助手を勤める私にも一切の雑念も許されませんでした。
父との息がぴったり合わないと、作品が立ち上がらないのです。そのためには手や足も飛んできました。時にはアトリエの隅までふきとばされていることもありました。でもそうすることで私にも作品に対する気迫を伝えたかったのだと思います。
そして親と子の呼吸がピッタリ一つになったとき作品が立ち上がるのです。この一瞬の間が厚さIセンチ、底の方でも1.5センチしかない厚さの板状の粘土を立たせるエネルギーが一点に集中させるのだと思います。制作中には母のマサ江ですらアトリエに近付くことが出来ませんでした。きっと私たち親子にとって神聖な場所だったのでしょう。
◎増渕元秀作品
しかし、作品を手放さないので経済的には全面的に母が支え、父の重圧で押しつぶされそうな私を主人が支えてくれました。おかげで家庭が崩壊せずに、父がもう作品は出さないと言うところまで、父を、そして作品の制作を支え続けることが出来たのだと思います。この場をお借りして母にはご苦労様と、主人にはありかとうという言葉を送りたいと思います」
また、今回の師弟展に際し、「皆様のご尽力によって三人展を開いていただいた事でやっと、心の葛藤に終止符が打たれた思いがします。後になりましたが皆様に心から感謝申し上げます」と述べている。増淵元秀と娘冨美子が作品と格闘する姿が思い浮かぶ一文である。
斎藤徳三郎と増淵元秀
増淵元秀は昭和6年生まれ水戸千波湖在住の陶芸家。斉藤徳三郎の愛弟子で日本画より陶芸の道に入り、国内はもとより世界的に高く評価されている。
◎斎藤徳三郎の愛弟子も陶芸家増渕元秀
斎藤徳三郎の人柄に引かれ芸術の道に入った。元秀は芸術の事・美術界の事・人の生き方について多くのことを学んだ。
徳三郎が蕎麦を食べたいと聞き、徳三郎の兄の神田の「砂場」に蕎麦汁を貰いに行った。
その時蕎麦を肴に灘の酒を飲んでいる杖をついた老人が元秀に声をかけてきた。
「徳はどうしいる。徳三郎は元気か。徳は絵を描いているか。」と、元秀は「うちの先生を呼び捨てにするとは失礼な奴と。」怒って帰ってきた。徳三郎にこの話しを伝えると、「その老人は志賀直哉という人だよ。」言った。
元秀は徳三郎より多くの事を学んだ。また、日本工芸会審査員の荒田耕治の指導を受け、生涯の師と仰いでいる。
初期の作は福田窯(福田は世界一の大花瓶の制作者)や酒井一民の窯でや焼いた。
◎左斎藤徳三郎、右増渕元秀
斎藤徳三郎の交遊関係
他に徳三郎(徳山人)と交遊関係にあった人は吉井忠(画家)・椿貞雄(銀座サエグサで二人展)・江川文典(画家)・木村壮太(木村壮八の兄新しき村の助役)・丸木位里夫婦(原爆の絵の画家)・伊野農夫也(版画家)・岡野良平(白日会・日本美術会)・牧大介(画家)・郡司次郎正(侍日本の作者)・歌舞伎の坂東三津五郎・高倉隆文(千波船附の円通寺住職)など多彩である。
◎棟方志功
徳三郎と緒川村
斎藤徳三郎は昭和5年茨城県緒川村に入った。この時面倒を見たのが県会議員の斎藤沈水である。同じ政治家仲間の五江淵家の娘フクと結婚した。そして村会議員・農業委員を努め、酪農では朝鮮赤牛を導入した。「新しき村」の理想を掲げ村つくりに励んだ。
また、戦後農民運動を指揮した。
◎斎藤徳三郎スケッチ緒川村下小瀬五位淵家風景
◎斎藤徳三郎の農業委員会辞令
徳三郎の元には多くの文人・芸術家達が訪れた。増淵元秀もその一人であった。そした茨城美術を結成し代表になった。
日本板画院の会長は松方三郎・名誉会員は棟方志功・参与が徳三郎である。
徳三郎は日本板画院茨城支部長になり多くの美術家を指導した。
また、水戸市天恩ビルの中村はなに請われ「週刊天恩」に多くの文を寄稿し文筆にもその冴を見せた。
斎藤徳三郎は昭和46年70歳で茨城県大子町の病院に入院し水戸の城南病院で没した。生誕103年を迎える。緒川村の渓流を望む五江淵家の丘の墓地に墓標が建っている。
そこには武者小路実篤が「徳山人ここに眠る 実篤」と揮毫している。
◎武者小路実篤筆『徳山人ここに眠る」
弟の斎藤晴造(東北大学経済学部教授・経済学部長)は13回忌「斎藤徳三郎遺作展」で「兄の生涯は新しき村を貫き通した事です。画業は多くの先輩の指導の賜物です。」と語った。
◎斎藤徳三郎画
斎藤徳三郎と中川一政
洋画家の中川一政(88歳)は昭和56年水戸市アート・センター・タキタ・ギヤラリーでの「斎藤徳三郎遺作展」に寄せて次のような一文を寄稿している。
私は斎藤君とたびたび遊んだ。相撲もよくとった。巣鴨の画室で相撲をとっていたとき関東の大地震で東京方面に火が上がり、「火事だ火事だ」といたら斎藤君の家が焼けていたのだ。斎藤君の家は日本橋の三越の横にあり、かまぼこ商で大勢の使用人がいた。手伝うとみえて、片手で卵の黄身と白身とを別けてみせた。
どうして武者小路さんと知り合ったかといゆうと兄さんの影響かと思う。
◎斎藤徳三郎の兄弟(中央が斎藤徳三郎)
武者小路さんの新しき村にいっていたから、新しき村の先輩でもある。画もかくし、芝居もする。演出もする。
器用な性であったが、新しき村にいたからであろう。私も斎藤君のあたらしき緒川村にいったことがある。
川が流れ、静かな郊外で隠とん生活をしたら良さそうなところであった。村の人からも尊敬されているようで、役に立つことも多かったであろう。早くなくなった。晩年はゆっくり話す機会がなかった。 6月11日
259ー02 神奈川県眞鶴町1578 中川一政内
◎斎藤徳三郎と相撲を取って育った中川一政
◎画家中川一政
◎斎藤徳三郎作
高さ1.82メートル 幅3.64メートルもの大作、昭和40年代蕎麦店「よかっぺ」の店主椎名昭二氏のために描いたもの
斎藤徳三郎と武者小路実篤
昭和39年水戸の伊勢甚デパートで「斎藤徳三郎個人展」が開かれた。武者小路実篤(79歳)は推薦文で「斎藤君を知って40何年になる。この間いろいろな事があり、暫く何処にいるのか知らない時があったが、いつのまにか水戸の山奥に住を定めて農業をやりながら画を続けているのを知り、よかったと思った事がる」と書いている。「いろいろな事」とは何か興味が持たれる。
その後武者小路実篤と斎藤徳三郎の二人展は水戸と大子町の大子第一高等学校で開かれ評判になった。
◎武者小路実篤書「茨城県県会議長斎藤沈水への為書」
◎斎藤徳三郎作「深海の天女」100号
大子町の篤志家斎藤枕水家には武者小路実篤の掛け軸・絵・斎藤徳三郎が東京より3人の美女のモデルを呼んで裸体を描いた100号の大作「深海の天女」が残っている。
また、椎名昭一家(徳三郎がよかっぺと命名・蕎麦茶店)には農天下大本也の大作が掲げられている。
斎藤徳三郎と椿貞雄
昭和33年「斎藤徳三郎、棟方志功二人展」に寄せて国画会会員椿貞雄が寄稿している。
◎山形出身の椿貞雄作「柿之図」
◎椿貞雄作「童女像」
「斎藤が二十年振りにひょっこり現れた。茨城の奥で田畑を耕している。日本橋魚川岸生れの彼が、すっかり百姓親爺になったのには一寸驚いたが、彼にはそういう性格が前からあったので、新しき村の最初の会員で九州へ武者さんについていったのでもわかる。その頃から絵を書いていたわけだが、その後筆を捨てる事ができなかったのはよくわかるし嬉しいことだ。
斎藤の処へ行って彼の百姓生活を見て又彼の人格的進歩に驚いている。
こんど個展を開催すると云うその意気や甚だよろしい。彼の仕事は勿論今後にかかっている。個展は自己反省だ。これを出発点として大いに努力して貰いたい。斎藤独特の仕事が生まれるのを心から祈っているわけだ。」
◎斎藤徳三郎
斎藤徳三郎と棟方志功
昭和33年(1958)には「斎藤徳三郎・棟方志功二人展」が水戸の天恩ビル画廊で開催された。
この時斎藤徳三郎は油彩倭画7点・油彩17点・板画3点・回顧作品2点を出展した。棟方志功は倭絵9点、書3点・板画18点を展示した。
◎斎藤徳三郎作
この展覧会に棟方志功(61歳)は二人展に寄せて次の様な一文を寄稿した。
斎藤徳三郎大仁と二人展覧会を祖想父武の地水戸市で開かれることは喜悦以上の有り難さ、かたじけなさを受与いたします。
斎藤徳三郎大仁の貴命は実に扶桑大魂の命実を克く体し、その国祖の大妙に締結させるあり方こそこの国の画業とせるところ、私の画憑とおなじくするところであります。同じくする事ばかりでなく大仁に教示されるばかりであります。
先醒畏情の斎藤徳三郎大仁とのこの展覧会には、わたくしも当地に行ける歓喜を隠す事できなく、満足以上であります。どのようにか皆々様の御恩義に寄る事が深尽と、お願いと喜びを重々にしてこの二人展覧会最初のお願いの記を書きました。
昭和32年12月15日 版画家 棟方志功
◎棟方志功版画昭和31年「花見の作」
また、恩師武者小路実篤(75歳)は「斎藤徳三郎・棟方志功展に寄せて」
「斎藤徳三郎個展に際して」と題して、次のような一文を寄せいる。
斎藤徳三郎はよく僕を驚かす人間である。20何年水戸の、山奥、どんな処か知らないが、引き込んで百姓の仕事をしている。去年久ぶりに僕の家を訪ねてきた時、変な奴が来たと思っていたら斎藤だった。今度また朝早くやってきて水戸で個展をやるという。水戸は彼には第二の故郷のようなものだから故郷で個展をやるわけだから20年前から親しくつきあっている僕には大いに祝いたいと思う。 斎藤の絵はどこまでも斎藤らしい我儘な画である。斎藤を知っている僕にはおもしろく思う。その線にも調子が出ているし、色彩感覚もあり、田舎に引き込んでよく書いたといいたいが、他の人はどう思うか知らない。今度の個展で斎藤のがむしゃらなところがなくならず、益々油に乗って仕事をすることを望んでいる。とにかく人を驚かす人間である。
◎武者小路実篤
徳三郎と岸田麗子との交遊(麗子像)
斎藤徳三郎は岸田麗子さんの思い出を水戸の「週刊天恩400号」に執筆した。
◎斎藤徳三郎作「週刊てのおん」表紙絵
「東京から今日謹吾兄が麗子さんの訃報を天恩編集部に知らせてくれ、それから私も知らせを受けて言葉通り驚いた。
そして死んだとは思えない。いま思い出の一言を作文にしようとしても、麗子さんが死んだとは実感されない。
またいつでも「新しき村展」や「大調和展」の集まりで元気な姿と美しい声が聞かれると思えてならない。
麗子さんは恩師武者小路師を一番尊敬していた。尊敬し続けて、この世から去られた。新しき兄弟のひとりとして私は今再びこのことだけでも麗子さんの霊に頭が下がる。
私が麗子さんを知ったのは、岸田劉生師が鵠沼にいられる時代からだ。
◎岸田劉生家族前岸田麗子
言葉をかける機になったのは、大調和展で私が劉生師の処へしげく通うようになってからだ。
武者小路師につれられて劉生師の画室で麗子さんの絵を見て驚いたことがあった。
日本敗戦と、その後の苦しい世の中をよく生きぬいて、近頃益々絵を勉強され、個展や、その他を、何回もやって居られたことで、大変よいことだと嬉しく思っていた。
◎岸田麗子
椿貞雄兄が小瀬の私の処へ来てくれ、麗子さんの色々なことを話され、又、中川一政師も話してくれた。
そのなかで、私の頭にのこっているのは、いつも皆さんが、麗子さんのことを愛していられ、心配していられ、そして元気に仕事をしてして行くことを、と思われていた事実は、誠に劉生師を通しての愛情だと思う。
劉生師の画業の一切の特質は、麗子像によって代表されている。 愛とキビシサと、芸術とが、父と子と一体になって世に残されている事実を知れなければならない。
◎岸田劉生作「麗子像」
水戸で「あたらしき村展」を天恩画廊でひらいた時、大変に天恩同人の親切な心づかいを感謝して帰られたこともあった。
私は笑い話の中にフラフープのことを話したら、フラフープを送ってくれる約束もあったが、その後虎屋の御菓子を送って頂いた。そんなことも一つの思い出である。
今年の一月再開大調和展の受付日に、いつものようにニコニコ笑いながら、お話しいたした、その時の気持ちが、いまもなお目に浮かび、9月に三越でやる「新しき村展」で、またお目にかかれるかも知れない。
ともあれ立秋の風吹いて、病葉一葉落ち、益々人生の無情を知るのみ。37、8、1」と追悼している。
◎斎藤徳三郎作「週刊てんおん」表紙絵
明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。
平成30年1月元旦
松宮 輝明
岸田劉生と徳三郎
岸田劉生とは武者小路実篤を通して知り合いになった。徳三郎は大正13年に岸田劉生が結成した「春陽会」第1回展に出展した。 春陽会同人には小杉放菴・中川一政・木村壮八・万鉄五郎・梅原龍三郎等がいた。この年、岸田劉生は30歳・梅原龍三郎32歳・中川一政28歳、徳三郎21歳であった。
◎斎藤つく三郎の日本画「山水」
◎岸田劉生
◎前列左より声楽家柳兼子、武者小路徳子、
後列左より3人目武者小路実篤、柳宗悦、滋賀直哉(我孫子の武者小路実篤の別荘にて)
武者小路実篤は大調和会展を設立した。設立の理由は春陽会を3回展で退会した岸田龍生のために作られた展覧会であると言われている。その第一回展が昭和2年、上野の日本美術協会で開催された。劉生は関東大震災後東京駒沢村を離れ京都より藤沢鵠沼に移り住んだ。龍生は日本画を試み「舞妓里代の像」など意欲作を出展した。武者小路は徳三郎を大調和会展の事務局主任に任じた。徳三郎の彼女(最初の妻)は白樺派同人の河野通勢の弟子であった。
◎河野通勢の自画像
彼女は実家が関西の御殿医をつとめた名家の娘であった。河野通勢は「箱入り娘同様に扱っていた。徳三郎に誘惑するなよ。」と釘をさしていた。この恋愛で河野通勢は実家と二人の間に入り苦しい味をなめたと言われている。白樺派の仲間たちは「御曹司とお姫様のしたことだ」と言って容認した。徳三郎の妻も作品を大調和会に出展した。 大調和会展は龍生の死を契機に2年で閉鎖された。再興大調和会展は昭和37年、武者小路を中心に白樺派画家・河野通勢の息子河野通明等が計って再興した。徳三郎は再興大調和展に出展してベテランの片鱗を見せた。
大正14年梅原龍三郎が春陽展を退会し国画創作協会に迎えられ徳三郎も国画会に移った。そこで春陽会の盟友棟方志功と再開した。 棟方は「大和し美し」を出展し日本民芸館に買えあげられる。柳宗悦・河井寛次郎、浜田庄司の知遇を受けた。
◎左から陶芸家浜田庄司、民芸運動の柳宗悦、陶芸家河井寛次郎
梅原龍三郎は国画会を退会し徳三郎も出展をやめた。棟方とは日本板画院を結成し棟方が名誉会員・徳三郎が参与になった。そして松方三郎を会長に迎えた。
徳三郎は春陽会で慶応大学医学部卒業の医師で梅原竜三郎に師事した富田重雄(明治33年生まれ)と交遊し国画会でも行動を共にした。富田は美人画を得意とし吉川英治の「宮本武蔵」の挿絵も描いた。後に文展審査員になる。
◎武者小路実篤と滋賀直哉
白樺派との出会い(2)
親が徳三郎をフランスに留学させるとの話しに、それなら絵を買ってくれと頼み4千5百円で購入し新しき村に届けて貰った。
徳三郎は武者小路を介して洋画家岸田劉生・中川一政・梅原龍三郎とも親交が深かった。
版画家の棟方志功・美人画の宮田重雄・武者小路実篤とそれぞれ二人展を開いている。
棟方志功は「斉藤さんは画業では私の先輩で、草土社の岸田劉生先生の秘蔵ッ子だった。」といっている。斎藤家は草土社のスポンサーであった。
斎藤徳三郎は洋画・日本画・南画・倭絵・板版画・ガラス絵・陶画など多才で、古陶器の鑑識眼にも秀で、新しき村では芝居もやり演劇家でもあつた。春陽展・大日本美術展・第一回聖徳太子奉賛展に出展、第1部委員・大調和会主事会員・日中文化協会華南展特選・最高賞、日本板画院展で活躍した。昭和5年茨城県緒川村に移住し、「美術茨城」を結成し代表になり、多くの美術家を指導した。
◎棟方志功は斎藤徳三郎の弟弟子であった
◎斎藤徳三郎の色紙(少女)
◎斎藤徳三郎の「花と果実と野菜」油彩20号
◎斎藤徳三郎「カボチャと栗ブドウ」
武者小路実篤の絵画の師斎藤徳三郎の生涯(1話)
斎藤徳三郎交遊録
斎藤徳三郎の生い立ち
斉藤徳三郎は明治34年(1901)東京市日本橋で父安太郎・母くわの三男として生まれた。生家は三越デパートの隣にあり、海産加工品を商う豪商の蒲鉾問屋「池上屋」で御曹司として育った。
斉藤家には上野の美術学校の学生が寄食していたので徳三郎少年も日本画を学んだ。父が相撲のひいき頭で第19代横綱常陸山も幕下付け出し時代より寄食していた。
常陸山は徳三郎少年を可愛がり「徳ぼう徳ぼう」と呼び横綱に抱かれて眠り育った。祖父は河岸の顔役で横綱梅ガ谷のひいき頭板垣退助とも親交があった。
◎横綱常陸山
祖父は明治40年国技館建設のための相撲興行をアメリカ・ヨーロッパ巡業として実施した。そして相撲巡業旅行の保証人になった。常陸山一行はアメリカ・ロンドン・パリ・ローマ・モスクワを歴訪しシベリア経由で帰国する。アメリカではホワイトハウスに招かれ、セルドン・ルーズベルト大統領に横綱土俵入りを披露する。歴代横綱で初めての快挙であった。
◎横綱常陸山の土俵入り
明治42年両国「回内院」境内にローマのコロシアム競技場を感じさせる円形座席の国技館が完成する。徳三郎の祖父は相撲界の功労者として金製軍配「木戸御免」が贈られた。
9歳の徳三郎は祖父に手を引かれ「木戸を入った通路の両側に相撲取りが並び最敬礼で迎えられ祖父は喜んでいた。」と語る。
祖母は春になると売り出される「白酒」の本舗・神田の酒屋である「豊島屋」の娘で優しい人であった。
斎藤家の開放的な家風の中で芸術家・歌舞伎役者・長唄師匠・上野浅草あたりの芸人などが絶えず出入りしていた。
後年に文化勲章を受賞した洋画界の重鎮の中川一政は駒沢村に住んでいて、幼少時より斎藤家に出入りし、徳三郎と相撲を取って遊んでいた。
徳三郎と白樺派(1)
また、徳三郎は「大正デモクラシー」時代の「白樺派」の芸術家集団と交遊があった。徳三郎の兄は上智大学を出て哲学、美術が好きだったのと、日本画の橋本雅邦の末っ子と友達であった。当時、徳三郎は武者小路実篤や柳宗悦等が千葉の我孫子に住んでいて白樺派の芸術集団と親しくなった。
白樺派の芸術集団の中心メンバーは学習院出の貴公子だったので社会は注目した。白樺派は「個性の伸張を第一とする理想主義」を掲げた。大正3年より我孫子の武者小路家の別荘には白樺派5人組が移り住んだ。武者小路実篤(28歳)・志賀直哉(30歳・ロダンより彫刻三点が贈られた。これが日本に渡った最初のロダンの彫刻である。)
柳宗悦(25歳・民芸運動の創始者・宗悦の叔父嘉納治五郎の薦めで我孫子に移り住む)・柳兼子(22歳・柳宗悦の妻・日本の近代声楽法を確立した。ベルリンでリサイタル開きドイツ人を驚愕させた。日本人最高のリード歌手、軍歌を歌うことを拒否する。)
バーナード・リーチ(27歳・イギリスの陶芸家・エッチングを初めて日本に紹介する。陶芸家浜田庄司と親交あり。民芸運動に参加する。)徳三郎少年はこれらの人達と交わった。
大正7年に徳三郎(18歳)の時武者小路実篤に誘われ宮崎県日向に行き「新しき村」の設立に参加した。「新しき村」は15名の設立会員であった。武者小路の「カボチャの絵」の先生でもある。 徳三郎は新しき村に後期印象のセザンヌの「風景」とゴッホの「ヒマワリ」の絵を持っていった。
親が徳三郎をフランスに留学させるとの話しに、それなら絵を買ってくれと頼み4千5百円で購入し新しき村に届けて貰った。
◎武者小路実篤と斎藤徳三郎
◎斎藤徳三郎作「農天下大本地」油彩50号
◎茨城県緒川村の五位淵家、斎藤徳三郎は五位淵家のフクと結婚した
◎茨城県緒川村の名家五位淵フク
◎第二次大戦では朝鮮へ軍属として転戦
◎戦後の五位淵家の子供達