武者小路実篤の絵画の師斎藤徳三郎の生涯(1話)
斎藤徳三郎交遊録
斎藤徳三郎の生い立ち
斉藤徳三郎は明治34年(1901)東京市日本橋で父安太郎・母くわの三男として生まれた。生家は三越デパートの隣にあり、海産加工品を商う豪商の蒲鉾問屋「池上屋」で御曹司として育った。
斉藤家には上野の美術学校の学生が寄食していたので徳三郎少年も日本画を学んだ。父が相撲のひいき頭で第19代横綱常陸山も幕下付け出し時代より寄食していた。
常陸山は徳三郎少年を可愛がり「徳ぼう徳ぼう」と呼び横綱に抱かれて眠り育った。祖父は河岸の顔役で横綱梅ガ谷のひいき頭板垣退助とも親交があった。
◎横綱常陸山
祖父は明治40年国技館建設のための相撲興行をアメリカ・ヨーロッパ巡業として実施した。そして相撲巡業旅行の保証人になった。常陸山一行はアメリカ・ロンドン・パリ・ローマ・モスクワを歴訪しシベリア経由で帰国する。アメリカではホワイトハウスに招かれ、セルドン・ルーズベルト大統領に横綱土俵入りを披露する。歴代横綱で初めての快挙であった。
◎横綱常陸山の土俵入り
明治42年両国「回内院」境内にローマのコロシアム競技場を感じさせる円形座席の国技館が完成する。徳三郎の祖父は相撲界の功労者として金製軍配「木戸御免」が贈られた。
9歳の徳三郎は祖父に手を引かれ「木戸を入った通路の両側に相撲取りが並び最敬礼で迎えられ祖父は喜んでいた。」と語る。
祖母は春になると売り出される「白酒」の本舗・神田の酒屋である「豊島屋」の娘で優しい人であった。
斎藤家の開放的な家風の中で芸術家・歌舞伎役者・長唄師匠・上野浅草あたりの芸人などが絶えず出入りしていた。
後年に文化勲章を受賞した洋画界の重鎮の中川一政は駒沢村に住んでいて、幼少時より斎藤家に出入りし、徳三郎と相撲を取って遊んでいた。
徳三郎と白樺派(1)
また、徳三郎は「大正デモクラシー」時代の「白樺派」の芸術家集団と交遊があった。徳三郎の兄は上智大学を出て哲学、美術が好きだったのと、日本画の橋本雅邦の末っ子と友達であった。当時、徳三郎は武者小路実篤や柳宗悦等が千葉の我孫子に住んでいて白樺派の芸術集団と親しくなった。
白樺派の芸術集団の中心メンバーは学習院出の貴公子だったので社会は注目した。白樺派は「個性の伸張を第一とする理想主義」を掲げた。大正3年より我孫子の武者小路家の別荘には白樺派5人組が移り住んだ。武者小路実篤(28歳)・志賀直哉(30歳・ロダンより彫刻三点が贈られた。これが日本に渡った最初のロダンの彫刻である。)
柳宗悦(25歳・民芸運動の創始者・宗悦の叔父嘉納治五郎の薦めで我孫子に移り住む)・柳兼子(22歳・柳宗悦の妻・日本の近代声楽法を確立した。ベルリンでリサイタル開きドイツ人を驚愕させた。日本人最高のリード歌手、軍歌を歌うことを拒否する。)
バーナード・リーチ(27歳・イギリスの陶芸家・エッチングを初めて日本に紹介する。陶芸家浜田庄司と親交あり。民芸運動に参加する。)徳三郎少年はこれらの人達と交わった。
大正7年に徳三郎(18歳)の時武者小路実篤に誘われ宮崎県日向に行き「新しき村」の設立に参加した。「新しき村」は15名の設立会員であった。武者小路の「カボチャの絵」の先生でもある。 徳三郎は新しき村に後期印象のセザンヌの「風景」とゴッホの「ヒマワリ」の絵を持っていった。
親が徳三郎をフランスに留学させるとの話しに、それなら絵を買ってくれと頼み4千5百円で購入し新しき村に届けて貰った。
◎武者小路実篤と斎藤徳三郎
◎斎藤徳三郎作「農天下大本地」油彩50号
◎茨城県緒川村の五位淵家、斎藤徳三郎は五位淵家のフクと結婚した
◎茨城県緒川村の名家五位淵フク
◎第二次大戦では朝鮮へ軍属として転戦
◎戦後の五位淵家の子供達