福島の焼き物と窯、戊辰戦争の激戦地を行く

青天を衝くー渋沢栄一の生涯 新型コロナウイルスを歴史に学ぶ

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新型コロナウイルスを歴史に学ぶ (14話) 須賀川の文化を考える  

2020年06月30日 | 新型コロナウイルス
新型コロナウイルスを歴史に学ぶ (14話)
須賀川の文化を考える          
伊能忠敬研究会東北支部長
マメタイムス新聞掲載
令和2年6月29日(月)
元日本大学工学部講師・化学 
松宮輝明





新型コロナウイルスを歴史に学ぶ (11話)   教育改革、高校再編成 ① 

2020年06月14日 | 新型コロナウイルス
 新型コロナウイルスを歴史に学ぶ (11話)  
教育改革、高校再編成 ① 
マメタイムス新聞掲載 
令和2年6月8日(月)        
伊能忠敬研究会東北支部長
元日本大学工学部講師・化学 
松宮輝明

◎明治40年創立、113年の伝統を誇る須賀川高校


新型コロナウイルスを歴史に学ぶ(その5)

2020年04月28日 | 新型コロナウイルス
新型コロナウイルスを歴史に学ぶ(その5)
伊能忠敬研究会東北支部長
元日本大学工学部講師
松宮輝明

令和2年は、国難の大変な時代となりました。時季とか時期ではなく、歴史が大きく変わる時代になったようです。
須賀川市からは7名の感染者が出て、須賀川市内の小中学校は、4月22日(水)から5月6日(水)まで臨時休校になりました。
同じく、高等学校は21日(火)から5月6日(水)まで臨時休校です。
新型コロナウイルスの猛威は、収まらず市民の一人ひとりが、拡散予防の自覚をし、そのための務めを果たさなければなりません。
明治の初め、須賀川医学校(現岩瀬公立病院)に学び東京市長も務めた後藤新平(1856~1929年)が改めて注目されています。後藤新平は、医師で、日清戦争後の検疫事業を担うなど公衆衛生の普及に尽力しました。
  医師として活躍しながら、公衆衛生の必要性を訴え続けた後藤新平。日清戦争後、世界でも類を見なかった24万人もの帰還兵を検疫する必要があり、不眠不休で奮闘しました。即席の検疫所を三カ所作り、「蒸気消毒缶」を製作し、感染者の動線を確保し、検疫スタッフの待遇改善をしながら集中し、検疫をわずか2カ月余で終えたことは世界医学界から絶賛されました。
「衛生の概念は、『生』を『衛(まも)る』という視点で、命を守るには何を為(な)すべきかを常に考えていた人です。
 緊急事態宣言が発せられましたが、政府が何かをやってくれるとの期待感のみでは、コロナウイルスを撲滅できません。今こそ、後藤が説き続けた『自治三訣』を思い出し、国民が主権である民主主義を考えるべき時ではないでしょうか。
 新潟県柏崎市の柏崎通信の梶谷恭巨氏は「今回のウイルス問題の解決には、京都大学の今西錦司博士の進化生物学を学ぶ必要があります。今西博士の提唱した棲み分け理論、こまどりの行動理論は、動物の安定した生態系を壊さないことなのです。新コロナウイルスの問題は、進化生物学の立場で考察し生態学、人類学や社会学などの問題を解決しなければと思います」とのコメントをいただきました。
コロナウイルスのシンクロニシティ(同時性)の現象は、ルネッサンスの時代に、ペストが蔓延し、日本でもペストは、安土桃山時代の日本版ルネッサンス時代に、同時期に起った感染症の流行です。
ルネッサンスとは、14~16世紀、イタリアから西ヨーロッパに拡大した人間性解放をめざす文化革新運動で、都市の発達と商業資本の興隆を背景として、個性、合理性、現世的欲求を求める精神運動が躍動し、ルネサンスという言葉が生まれました。
日本にも安土桃山時代にルネッサンスがありペストが流行しました。
 
人類には、遺伝的記憶がDNAに刻まれている様です。
平成前後から、欧米の小説や映画やドラマには、「パンデミック」を予想した作品があります。「ブレイクアウト」や「インフェルノ」等が、予兆を感じさせる作品です。
 
コロナウイルスの感染により、価値観が変わり、歴史の流れが大きく変わるのではないかと思われます。経済も芸術も、特に美術の世界は大きく変化するのではないかと思われます。
 庭の草取りをしていると、季節の変化が実感できます。雑草の生育も年ごとに変化しています。今年は花の咲き具合、雑草の繁殖の仕方が、昨年よりも早い様です。
人が余り気にしない、雑草の繁殖は、もっとも気象を反映している生態系の変化です。二酸化炭素の増加により「地球温暖化」が進んでいます。
 
大阪大学の研究者が、新コロナウイルスの抗体を大腸菌より造りました。「疑似新型コロナウイルス」の抗体が作られたのです。9月には新薬の抗体として臨床実験が行われるようです。

「3密」にはマスクが必要です。小学校は家庭科の学習で裁縫があります。親に頼るのではなく、自らマスクを作り、コロナウイルスの飛散を防がなければなりません。

消毒液のアルコールは日本中には酒蔵会社がり、り簡単にアルコールを造ることが出来ます。手洗い、ウガイを徹底しコロナウイルスから身を守ることです。
これからは消毒液のアルコールは携帯する必要があります。

今は「油断大敵」です。「常在戦場」を意識しながら3密の決まりを守り、ウイルスに感染しないように、感染させないように、日常生活を送りましょう。



◎高野長英の遠縁でもある後藤新平は、ドイツで法医学を学び内務省衛生局長となりで衛生学を確立しました。



新型コロナウイルスを歴史に学ぶ (その2)

2020年04月17日 | 新型コロナウイルス
新型コロナウイルスを歴史に学ぶ (その3)            
伊能忠敬研究会東北支部長
元日本大学工学部講師・化学 松宮輝明

内閣総理大臣は、4月16日(木)新型コロナウイルス感染の拡散を防ぐために全国に「緊急事態宣言」を出しました。
  
新型コロナウイルスの猛威は、私達一人ひとりが、拡散予防のために努め、命を守る責務を果たすことです。
新型コロナウイルスとの戦いは、人類が結束することの重要性を教えております。

令和2年4月17(金)、福島県内の感染者は、42人、須賀川市から7名の感染者が出ました。小中学校が臨時休校になり、高等学校は電車の混雑を避けるため時差登校となりました。
福島県内の国公立の大学は9月まで自宅でのPC授業となり、理系の実習、実験、音楽、美術、体育などの実技の授業は9月以降に実施されます。

人が集まる福島県総合美術展、東北の夏祭り、青森ねぶた祭、秋田竿灯祭り、山形花笠祭り、仙台七夕祭りなど。東日本大震災の慰霊祭「東北6魂祭」中止となりました。

新型コロナウイルスは、全世界の人々に大きな影響を与え、社会の仕組み大きく変える「歴史の転換点」となります。経済、貿易、交通、金融、観光、教育、医療など全ての仕組みが変わると思います。

生命誕生よりウイルスは存在して進化(環境)により強力な毒性のウイルスに変化し来ました。永遠に科学(医学)とウイルスの戦いは今後も続きます。

100年前の大正7年、スペイン風邪が、日本全土に感染し大正7年~9年間の3年間で、人口が5千500万人、約23万人が亡くなりました。
新型コロナウイルスとスペイン風邪の感染の広がりは酷似しています。

世界人口は18億人から20億人、スペイン風邪は全世界で感染者数は約5億人、死亡者は4500万人~5000万人と云われております。
全人類の3割近くがスペイン風邪に感染したことになります。

スペイン風邪は、大正7年3月、アメリカのデトロイトとサウスカロライナ州付近で流行し、アメリカ軍がヨーロッパに進軍し、5月から6月にヨーロッパで大流行しました。


日本でのスペイン風邪の道府県別感染状況は、大正7年8月下旬から9月上旬に勢いを増し、10月上旬、数週間で全國に蔓延し、11月に最も蔓延しました。
12月下旬に少し下火となりましたが翌大正8年初春は酷寒で、再流行を始めました。
発生の都道府県の順番は、①、神奈川、②、靜岡、③、福井、④、富山、⑤、茨城、⑥、福島と感染が拡散して行きました。



最初の感染地が神奈川県なのは、横浜港に貿易船、客船がスペイン風邪が運んで来たからです。計らずもこのたびは豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号の乗船者が新型コロナウイルスを横浜港に入港したことに酷似しております。当時の交通手段は海は船、陸は汽車での移動であり、東北本線は明治24年、上野から八戸まで開通しております。

スペイン風邪の大流行は、医師、看護師が感染し医療体制が完全に崩壊してしまい、全世界に拡大したのです。現在の新型コロナの感染に似た現象が100年前に起きていたのです。




新型コロナウイルスの感染を終息させるためには、感染症は先人の感染症対策を学び早期に適切な政策を打ち出すことです。
「人の交流を遮断し隔離し」新型コロナウイルスを移動させないことなのです。現時点で「抗体」が出来ないのです。ウイルスをせん滅させる後遺症を引き起こさない「特効薬」を世界の研究者が一日も早く開発することなのです。


◎新型コロナウイルス(80~100ナノメーター)

(つづく)



第15回 須田画伯の残したもの【最終回】

2015年06月16日 | 新型コロナウイルス

 

 

2006年5月2日「あぶくま時報」新聞掲載記事

 

◎跡見学園女子大学の教壇に立ち制作したモザイク画「牡丹」の壁画、現在は故郷須賀川市に寄贈され須賀川市牡丹会館に展示されている。

 

 

 

◎跡見女子大学から寄贈された牡丹会館に展示された「牡丹図」

 

◎須田画伯の日本画「牡丹」 

 

 

◎須賀川市体育館の緞帳原画「牡丹図」晩年の作昭和36年頃