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青天を衝くー渋沢栄一の生涯 新型コロナウイルスを歴史に学ぶ

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余話渋沢栄一の生涯11話「栄一が見たパリ万国博覧会」

2021年08月03日 | 渋沢栄一の生涯
余話渋沢栄一の生涯11話「栄一が見たパリ万国博覧会」

松宮輝明(伊能忠敬研究会東北支部長)     
 髷(まげ)を切った27歳の渋沢栄一は、慶応3年(1867)4月3日、幕府名代の徳川公のお供で、セーヌ河のほとり皇帝の居城チユイロリー宮の舞踏会に招待され華麗な踊りに目を見張りました。4月15日には、フランス陸軍の大砲製造工場を視察します。
 幕府がフランスより購入した大砲や兵器と新しく制作されている兵器の性能の違いを目の前にして、外国の威嚇に備えるための方策を考えました。4月24日、昭武公は、栄一らを従いパリ市街を視察し、整然と整備された街並みを見物し日本国での都市造りの基本を学びます。 5月4日午後2時、昭武公のお供でナポレオン皇帝、ロシア皇帝らとボワデブロンギユの競馬を観戦し競走馬サラブレッドを知りました。この日、ナポレオン3世は、パリ城郊外の演習場で、大観兵式を行いました。
 昭武公、ロシア皇帝、各国公使、武官らが招待され、栄一もお供をします。約6万人のフランス軍の観兵式で歩兵26大隊、騎兵、大砲兵、軍楽隊などいずれも華麗な正装の軍服の装いでした。ナポレオン3世皇帝が駒を進め閲兵し、次に司令官の指揮で、軍楽隊の見事な行進が披露されました。
 5月7日、徳川昭武公は、フランス皇帝、ロシア皇帝、ドイツ北部のプロイセン帝(首都ベルリン)と共にヴェルサイユ宮殿に招待さます。
宮殿には王族だけでなく貴族も住んでいました。庭園には民衆も入ることが許された公園で、その豪華な宮殿と庭を見て民衆は王の力の偉大さを知ったと云われています。
 最高の職人たちにより完成された宮殿とフランス式の庭園は、いずれも高い芸術性を持ち、栄一らは荘厳華麗な宮殿に目を見張りました。この日、昭武公、栄一らは、パリのパツシー郷ペルゴレイズ街53番の館に転居しました。
 5月18日、徳川昭武公、栄一らは、パリ万国大博覧会を観ました。万国博覧会は4月1日から11月3日まで首都パリで開催され、42ヶ国が参加し、1500万人が来場しました。
日本が初めて参加した匡際博覧会であり幕府、薩摩藩、佐賀藩等がそれぞれ出展しました。
 薩摩藩は、幕府とは別に「日本薩摩琉球国太守政府」の名で展示し、独自の勲章(薩摩国琉球国勲章)まで作成しました。薩摩藩がベルギー、フランス貴族のシャルルドモンブラン伯爵の勧めで製造した日本で最初の勲章です。
 薩摩琉球国勲章は、ナポレオン3世、フランス高官らに贈られ、その返礼として皇帝から記念メダルが授与されました。栄一ら幕府側は、日本国の代表は徳川幕府であると薩摩藩に抗議したが聞き入れられず、幕末の政争、戊辰戦争の機縁が如実に現れたパリ万博となりました。この時、幕府もフランスで勲章外交を行うために独自の「葵勲章」の制作を開始しましたが、結局幕府は倒れ、幻の日本勲章となってしまいました。
 幕府の出展は、数寄屋造りの茶室、日本庭園、薩摩焼、相馬藩、相馬駒焼など陶磁器、漆、金工細工などの工芸品、伊能忠敬の日本地図も展示されたと云われております。3人の板橋芸者(おすみ、おかね、おさと)が独楽(コマ)を回して遊んだり、煙管をふかしたりする光景が、物珍しさから、萇府や西南雄藩の公式展示以上の人気になったと云われています。
栄一は、5月29日から8月3日まで4回に渡り日本国出品に関する批評を調べました」。栄一は、各国の有名な肖像画、宗教画、風景 戦争画を鑑賞し「油画は欧俗最珍重する。各国の有名な肖像画、宗教が、風景画、戦争画を鑑賞し、「油画は欧俗最珍重するところにいて,その学科もまた盛に至り」と油絵を高く評価しております。栄一らは、パリの水道貯水池、ボワデブロンギユ、パリ郊外等を観覧し、その後、締盟各国を歴訪し親睦を図るために、スイス国に向う準備を始めました。
出発するに先だちの外国掛と昭武公随行員との人数の調整が紛糾し、栄一が調停に入りました。日本では幕末激動の時代となり、天からお札が舞い「えいじゃないかの踊り」が始まり、混乱の時代に入りました。   


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