三鍋王子跡
みなべICを出て南進。JR紀勢本線のガードをくぐりぬけた先の交差点を左折して間もなく、北道会館隣に三鍋王子社が鎮座していた。
小栗判官が水を飲んだと伝えられる奇跡の井戸。
常陸の国城主小栗判官は熊野「湯の峯」の湯が効果ありと聞き、妻照手姫の献身的な介添えのもと、箱車に乗せられて紀伊路を南下、熊野に向かった。
その道すがら、照手姫がこの井戸から水を汲み、判官に飲ませたと伝えられている。
鹿島神社
みなべ沖にある鹿島の南島にあった鹿島神社は明治42年に天照皇大神、須佐之男命と合祀され、現在の場所に移動したそうだ。
毎年8月1日に南部湾で開催される花火大会。
起源は、約300年前江戸時代の宝永4年(1707)10月28日に起こった大地震の津波が発生した際に、南部湾にある鹿島が波を2つに分けて被害を最小限に抑えたことへの感謝の気持ちから毎年行われているそうだ。
清姫の袖摺岩
清姫は、逃げる安珍を追って海岸を走るとき、大きな岩があり、袖を擦りながら駆け抜けたといういわれのある岩だ。
昔はひとかたまりの大岩?でしたが、今は砕けて大きな岩が2個ある状態となっていた。
さてこの袖摺岩。よく見ると、たくさんの小石が集まって出来た不思議な石。700~800万年前に海底にたい積した比較的新しい地層、目津礫層の石だそうです・・・
「さざれ石」そうです。国歌「君が代」にも歌われているあの石だ。
芳養王子跡
芳養王子社は、天仁2年(1109)10月に熊野参詣をした藤原宗忠の日記『中右記』に、「早(芳養)の海浜に出て河を越え、早王子に参った」と記すなど、多くの文献に名が残る王子社です。現在芳養王子社跡は、大神社となっている。
芳養一里塚跡
和歌山から18里の一里塚で、地元の人々からは「塚の地蔵さん」と呼ばれ親しまれているそうだ。
天神崎
天神崎は、日本の「ナショナルトラスト」第1号に認定された。
「天神崎の自然を大切にする会」が土地買収を行っており、自然が保護された岬だ。ここでは、陸の動植物と海の動植物が、平たい岩礁を挟んで同居し、森・磯・海の三者が一体となって一つの生態系を作っている。
市街地に近接しているにも関わらず、豊かな自然が残されているのが特徴だ。
野口雨情が天神崎を詠んだ「落ちる夕日は天神崎の遠く海原夕焼ける」の歌碑
天神崎 丸山灯台と白浜方面の遠望
標識のたもとに居座る子猫(上)
和歌山県朝日夕陽百選の碑近くで咲くアゼトウナ(畔冬菜)?の花(下)
アゼトウナ(畔冬菜)
伊豆半島以西の太平洋岸の岩場などに生える多年草。茎は短く、根茎状となり、その先にロゼット状になった根生葉を付け、枝先に黄色の花を付ける。
出立王子跡
熊野詣での際、田辺から海岸線に別れを告げ中辺路へ入る参拝者には、潮で身を清める最後の場所として、ここ出立は重要な拠点でした。身を清めるためにする潮浴びのことを潮垢離といい、ここ出立王子前方の潮垢離浜で行われていた。
建仁元年(1201)の御幸記では後鳥羽院に同行した藤原定家が不覚にも風邪をひき、出立での潮垢離を辞退したところ厳しく叱責され、やむなく潮浴びをしたと伝えられているそうだ。
出立王子社はもと元町西郷の御所谷付近にあったといわれていますが、元の場所は不明で、現在はこの位置に移されたそうだ。
潮垢離浜の記念碑(江川児童公園内)
田辺市の江川町の西方海岸は塩垢離浜、出立浜と呼ばれたそうで、 今は埋め立てられている。
役行者が22歳で熊野詣を行った時の著述である「不思議神変」には「清浄地浜ノ塩ヲ浴ルハ、悪行煩悩ヲ洗浄ス、祓スヘシ」と記しているそうだ。
ここは熊野詣での習わしで、人々が浜辺で潮垢離をとっていよいよ中辺路におもむいたのであろう。
熊野古道(紀伊路)散歩も最終回。紀州路最初の王子である中山王子から今回の出立王子迄の45王子跡と参詣道の見どころを散策して参りました。
ご視聴ありがとうございました。
予告(新カテゴリー) 熊野古道(中辺路)散歩
熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)に至る熊野参詣道のうち、田辺から本宮、新宮、那智に至る山岳路が「中辺路」と呼ばれている。特に平安時代から鎌倉時代に皇族貴族が幾度も繰り返した「熊野御幸」では、中辺路が公式参詣道(御幸道)となったそうだ。
和歌山市在住の私にとって、中辺路は遠くて人影の少ない長く険しい山道を越える山岳の参詣道。
無事に熊野本宮大社へと巡る事が出来るだろうか?・・・。
じっくり期間(元年・2年)と巡行回数を設けて、出立王子から熊野三山までの各王子社跡をて巡って行きたいと思います。