今年はイチゴが美味しく実をつけ、夕げの膳を占めています。毎日、アリや虫との戦いの結果のようです。とても、甘くジューシーで、「美味しい」 よりも、「もっと」という言葉が出ます。
夜半の雪
二人で星見
三十七年
花は瞬(またた)くに
落葉し
水面(みなも)のメダカに
8月4日(金)の花火で始まった『黄門まつり』も無事終わり、例年通り盛大に出来たようです。今年も家内は私に合わせて見物には行きませんでした。4日から6日まで夏休みの長女が、祖母のお祭り大好きのDNAを引き継いで、報告してくれたようです。
子らの教えも
塩梅肝心
夕げの膳に初物の空豆ご飯。「父の命日が近いなあ・・・」
湯気向こう
そら豆ご飯
浮かぶ亡き人
グリンピースも初物。そら豆ご飯の次は、「グリンピースご飯」。
「シャクヤク」。梅雨も近いかな。
二十個近くの花が咲いています。切り花にして、「お鈴」の脇に。
6月4日(土)に、業者を入れて庭の模様替えが始まりました。狭いスペースに、ごたごたと木や花などが所狭しと植えてあり、除草も大変でした。この度、少し手入れして、終の棲家づくりに着手した次第です。
金宝樹も、獅子柚子も、地植えのブドウも、キンモクセイも無くなってしまいました。我が家の大切なものが無くなってしまいました。園主は、一生懸命に愛情を注ぎ、面倒を見てきたので、ちょっと寂しそうです。
【子どもたちへの愛語】
「忙しくて、つい○○」と、何かしなければならないことができなかった時に、我が家の子どもたちは、口にしませんか。お父さんは、「忙しいは心を亡くす」ことですよと、先輩から言われてからは、意識して職場でも、家庭でも口にしないようにしています。
「忙中閑あり」という言葉があります。最初は、忙しい中にもわずかな暇はあるでしょうと、「忙しかったですから」という理由を述べる人への、いさめの言葉だったのではないでしょうか。しかし、時代とともに、忙しいからこそ、心に余裕を持ちなさいと、助言の意味を含むようになってきたと思います。
忙しい時は、本当に何も他にできないほど、そのことにかかりっきりになります。そうすると少しずつ集中力も切れ始め、疲労を感じるようになります。そうなると良い仕事はできませんし、家族の中での人間関係も気まずくなります。
だからこそ、忙中とか、苦中のどん底にいる時ほど、ちょっとした心の余裕を見つけ、次に進むきっかけにしなさいということでしょう。「忙しい」とか、「大変だ」とか、口に出すようになった時は、自分に負けて、敗北感を誤魔化そうとしている、そういう弱い自分を意識しているはずです。心中には、誰も弱い自分は感じています。しかし、口に出すか,出さないかが分かれ道のポイントです。出さない自分を貫くことができれば、満足できる結果が、その先に見えるものです。
だから、昔から、「親が死んでも食休み」とか、「目が回るような忙しさ」、「こまねずみのようにあくせくと」等の、忙しいを口に出さない表現を日本人は考えてきたのではないでしょうか。「忙しい」の言葉がお互いの口から出なくなるような人間関係は、必ず「除災招福」につながるものです。
最近、五行詩を掲載していません。自分の感情を無意識に表したく創作していました。しかし、現在は、自分を誤魔化すような気がしています。間もなく、書いてみたいというような意識になれることでしょう。
我が家の初孫も、この世に生を受けて間もなく3週間になります。多くの方にお祝いを頂きました。また同封で若い夫婦と子どものために、何かと心配りを頂きありがとうございました。子どもたちに代わりお礼申し上げます。猫と猿は義姉が手作りで、自宅の窯で制作してくれたものです。ブラッドオレンジを収穫しました。
世間でいうように、我が子を観るのと違い、「孫」は客観的に観られます。一番ビックリすることは、私と違って、父親が育児に積極的にかかわっている点です。子どもが好きとかの理由もあるのでしょうが、夫婦できちんと育児に当たるということなのだと思います。ミルクを飲ませたり、おしめを交換したり、あやしたりと、本当に良く面倒をみています。
街中で子どもを抱いたりしているお父さんを見かけますが、現代のお父さんたちは立派だと思います。そのためかどうかは分かりませんが、家内には比較をされて、育児には非協力的だったことを指摘されます。時代のせいなのか、私だけなのかは分かりませんが、指摘は正しいと思います。孫が出来て、改めて子どもの教育では、家内に感謝しています。
若いお母さんとお父さんには、今後も子どものために、協力し合い、元気に、健やかに逞しく育ててほしいと願います。今は赤ちゃんは、「泣く」ことが仕事ですから、「おむつかな」、「ミルクかな」と、あれこれ応えることが「親」の仕事。家内と伴に、子どもたちが、我が子の育児に対応している姿が懐かしくもあり、ハラハラでもあり。泣いている孫に、直ぐ手を差し伸べたいのを我慢して、先ずは見守らなければ。
初孫の
泣き声聞こえ
安堵する
夫婦で見合う
子らの成長
【子どもたちへの愛語】
エレン・ケイの唱える「子どもの権利」(『児童の世紀』)の「よく産んで貰う権利」、「よく養育される権利」、「よく教育される権利」を尊重して、育ててほしいと思います。ここでいう「教育」とは、学校教育を受けさせるということだけでなく、「家庭教育」や「社会教育」も含まれます。
そう考えますと、「教育」はもう始まっています。そこで考えてほしいことがあります。お父さんは、おむつ交換はしませんでしたが、次のことは大切にしてきました。それは、「子どもと遊ぶことができる人だけが、子どもを教育することができる」という考えで、我が子には接してきました。これはお母さんも同様です。
オートキャンプに行ったり、釣りに行ったり、ハイキングに行って道に迷ったりと、思い出されることは多いと思います。そういう「遊ぶ」という体験から学んでほしいと考えていました。キャンプに行くことが決まりますと、皆さんはお母さんと何を作って食べるか、などの相談をしたりして、準備に当たってきたことと思います。そして、火を焚いて、飯ごう炊飯でごはんを炊いたり、おかずを作ったりしてきました。
自分の考えを主張するということは、自分がその中心でことに当たらなければいけないことを学んでほしかったのです。それが、「遊び」を通して、我が子の「教育」をしていくということです。
我が子を子どものためと勘違いをして、型どおりの子どもにするため、矯正や助言、援助、などをして仕上げようとするのは、親としての素直な親切と用心深さ、ひたむきな愛から導き出される行為であることは否定はしません。しかし、子どもには子どもの不動の世界があり、それを正しいと考え、その中で好奇心を抱いたり、夢を描きながら生活し、実体験をして、自分の人格を形成していくのです。
だからといって、干渉したり、支配欲が強くなることをダメとはいいません。本当にダメなことは、身を挺しても「ダメ」を教育することは親の務めですから。逆に「やさししすぎる」こともイイとは思いません。やさしすぎると、人との関わり合いが出来なくなったり、集団の中でともに認め合うことが出来なくなってしまう子どもを育ててしまう場合があります。
早く、「家族」とか「家」という存在を意識したり、所属感を抱かせることにより、「家」というものは単に身体を置く場ではなく、子どもにとっては、心のよりどころであり、「家庭」が成長を育んでくれる場所であることを認知させることが、先ずはしなければならない教育ですね。大いに我が子と遊んでほしいと念じています。