2020/7/26に自分のTwitterに投稿した内容です。
ALS嘱託殺人の報道、
犯人と思われる人物のツイート、
被害者と思われる方のツイートなどを見て、
呟かれる尊厳死、安楽死についての意見を見て、
思うところがありました。
相模原障害者施設殺傷事件にも言及しており、
不快に思われるかもしれない事を、
あらかじめお伝えしておきます。
社会福祉の制度を利用させて頂きながら、
多くの方の支えがあって、
なんとか現在7年半になる母の自宅介護を
続けることができています。
助けて頂いている方々に感謝申し上げます。
以下ツイート内容です
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母の24時間の介護を自宅でできなくなる日が来るのは、そう遠くない。父ももう高齢。ワンオペは不可能だろうと思う。母は、くも膜下出血の後遺症で言語機能障害と全身麻痺をわずらっている。家族が無知ゆえに現世に引き留めてしまったから。ただ、どこでなら延命処置を辞める決断ができたかは今でも疑問。
人工呼吸器をつけていた期間はわずかだし、手術も出血箇所をふさぐだけ。病気というよりも事故に近い。胃瘻を作る時には鼻から経口栄養の摂取をしていたし、その前の点滴ではもう意識があった。手術前に気管切開は行われていたので、もし延命を辞める決断をするとすれば救急車に乗る前しかないとも思う。
フィクションでよく見るような別れの瞬間はなかったし、気づけば延命のレールの上に乗っていた。あの時よりも相当詳しくなった今、同じ状況であっても、延命処置をしない決断というのは難しすぎる。あきらかに明確な意思を持って"あやめる"意識が必要だと思う。
それでも逝かせてあげるべきだったと思うし、いいや、生きてくれただけで本当にありがとう。まだ居てくれて本当に嬉しいとも。そしてその強烈な罪の意識が私の介護の原点であり、自分にかけた呪いでもある。
母の自宅介護を辞め、施設に預けるというのは、ナースコールを押せない母には地獄でしかない。気管切開でカニューレまわりに溜まりまくるたんを放置しつづけ、地上で常に溺れたような状態にしておくことになる。
かゆい、痛い、しんどい、苦しいと言えない麻痺した体を放置し、少しずつ少しずつ褥瘡ができても、皮膚の痛みを我慢させ続けるしかない。施設で最大限にプロの方々の手により手厚く介護して頂いても、そこにどうしたって情は はさめないから。
そしてそれは現世に引き留めた人間として最大限の責任放棄だろうと思う。一切の罪をかぶり、母をあやめることの方が、母にとっての救いになるのではないだろうか?と考えない日はない。
真綿で首をしめられるように生き続けないといけない地獄よりは、自分可愛さに承認欲求と慰め欲しさで、ツイートするような気持ちの悪い息子の手にかかって逝く方が、まだマシかもしれないと、わりと真面目にそう思っている。
いずれにしてもALSの件と違うのは、母の本心を確認できないこと。どこまで行ってもこの禅問答に答えはない。ただ母の行動からやっぱり終わらせる事の方が救いではないかと思ってもいる。
母は麻痺した左手を制御がきかないなりに、ものすごくよく動かす。危ないので拘束が外せない。それもまた尊厳にかかわる問題だけれども。左手を動かす理由はひとつ。たんの苦しみ。気管切開カニューレを取り外してくれなのか、苦しいなのか、本心はわからない。
けれどたんがゴロゴロいう度引きちぎろうと人工鼻に手をかけようとする行為は、逝かせてくれとの叫びにも思える。そしてその度見せる表情は、嫌悪と恐怖。
ライトゥミーという海外ドラマで知った「人間は嘘をつけず、本心が微表情としてあらわれる」という話。実際の研究をもとにしているので、物言わぬ、けれど自我はしっかりあり、彼女の言葉=表情で雄弁に語る母を理解する一助になればと本を読んだ。
そこでわかった事実を、私はとても残酷だなと思った。母がいつも見せている表情があった。かかりつけの先生も介護士さんや看護師さんも私や父も、みんな勘違いしていた"怒り"だと思っていた表情、それが実は"嫌悪"と"恐怖"
介護や医療行為で体を動かされたり、処置をされるたび、母は恐怖し、嫌がっている。カニューレを引きちぎろうとする行為と共に、これは母からの強烈なメッセージなのではないか?と、自分のメンタルが弱っている日には、悪魔に耳を貸しそうになる。
先にRTした犯人のツイートが本当ならば、ALSの患者さんの思いも実際の方のものならば、
この殺害も、
植松の行いと、
植松が犯した罪と同じ論理=正義で世間が死刑を宣告した行為も、
私のこの、どこかで間違えてしまったこの思考も、
全ては救われたいとの願いから始まったものではないのだろうか。
亡くなられた患者さんのご冥福を祈ります。やまゆり園の被害者の方々の御冥福を祈ります。
被害者の家族、関係者の方々には大変に無礼で失礼な妄想や事実と違うかもしれない想像の話でしかなく、その事を勝手に話題にして、自分の思いを語ろうとした度し難い行為、大変に申し訳ありません。