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ギリシャふらり旅③ 

2024-12-23 | 旅行

12月12日 今日は、ペロポネソス半島への現地ツアーに参加。

ペロポネソス半島は、アテネからは100キロ以上離れており、かなり地方度が高く、半島全体で人口も150万くらい。交通の便が悪いため、効率的に回るべく現地ツアーに参加。ミケーネ、ナブフリオ、エビダウロスを一日かけて回るもので、50€。すごく効率的である。これ以降は現地バスを使ってまわってみた経験からすると、ギリシャをうまく回るには現地ツアーバスで選ぶのがよいと感じる。

シンタグマ広場を8時20分に出発して、まずは最初の目的地、コリントス運河へむけてバスは走る。ピレウス港からは一昨日のアポロン海岸とは逆に、北上しそのまま西進する。しばらく進むと左側にサラミス湾、サラミス島が見えてくる。紀元前480年、テミストクレスに率いられたアテネ市民はアテネを捨てサラミス等に避難し、アテネを中心としたギリシャ海軍がサラミス湾に集結し、狭い湾内にペルシャ海軍を引き寄せ、市民で構成するギリシャ艦隊は小回りが利くので、奴隷を漕ぎ手とする大きくて小回りの利かないペルシャ海軍を包囲し、壊滅的な打撃を与えた。いわゆるサラミスの海戦である。ペルシャ王のクセルクセスはこの敗戦によりその年の制圧をあきらめ、ペルシャに戻った。ギリシャペルシャの戦況を一変させた世紀の海戦のまさに舞台が目の前に広がっている。いまは、きもちよく高速道路で通り過ぎてしまうが、当時のことに思いをはせることができた。

<サラミス島とサラミス湾>

1時間ほどでコリントス地峡につく。コリントス地峡、イストモス(地峡)は、ペロポネソス半島の付け根にあって、ギリシャ本土との間を7キロ距離の陸地であったのを、19世紀に末掘削してイオニア海とアドリア海につながるコリントス湾をつないだもの。三大運河とガイドは言っていた。スエズ、パナマ、コリントスだそうだ。古代のコリントスはこの中継地としてペロポネソス半島側で栄えたが、さすがに運河は作れなかったようで、当時は陸路で運んでいたという。高さは80m幅23mあり、垂直に堀り込んだのが橋の上からよく見える。いまは、バンジージャンプの名所となっているようで、勇気があれば体験できるのかも。ちょっと無理だな。ペルシャ戦争時、クセルクセスの率いるペルシャの大軍が進行してきたとき、どこで防衛線を張るかの議論をした時、イストモスに引くべきとの意見を抑え、アテネの意見に従い、スパルタ王のレオニダスが300人のスパルタ兵を率いてテルモピレイに出撃する。そんなことも思い起こさせる。

<コリントス地峡>

コリントス運河

コリントス地峡で休憩の後、バスはペロポネソス半島へはいる。風景は岩山とオリーブやオレンジの灌木畑以外は、荒れた岩場が続く。古代もこんな風景だったのだろうか、よく見ると、たまには岩場に石垣とか見えるので、かつては農地だったのかもしれない。しかし、ギリシャは、紀元前7世紀頃に記述した「労働と日々」という農業書には禿山になっており痩せているようなことが期されていたような。そのころからはげ山は問題だったのかも。痩せた豊かでない土地であることは日本の農村風景とかと比べれば一目瞭然かも。しかし、降水量が少なく灌漑が必要な乾燥地域で文明は発展しているので、だからこそ文明がここに築かれたのかもしれない。と娘が言っていた。その通りだな。

バスで1時間くらい進んだかな、高速を離れ、山に向かって進んでいく。標高は200mくらいの丘の斜面にミケーネ遺跡が山を背景にした丘の上に広がっていた。こんなところにか、というような場所である。

遺跡の最も近い集落(といっても50軒くらいだろうか)のところにローカルバスは停まるようだが、そこからさらに山を登って車で15分くらいのところに遺跡はある。駐車場から遺跡が見えて、丘を包むように城壁がありその上に石組みが見渡せる。山を背景にその懐の丘の上全体がミケーネ城というべきか。駐車場わきにカフェがあるほかは何もない。

入場料は冬季半額の6€。天気も良く東京よりも暖かいギリシャはこの季節がよいと感じる。遺跡に向かい歩いて城壁にいきつき、城壁沿いにいくと有名な獅子門、ミケーネの象徴だ。門の上には顔は失われたが2頭の獅子が向き合い出迎える。3500年前の遺跡だが状態はとてもよく、往時をしのばせてくれる。しっかりした石組みであり、石の重さを程よく分散しておりその技術の高さがうかがえる。

<ミケーネ全景>

ミケーネ全景

<獅子門>

獅子門

門をくぐると、すぐに円形の遺跡。ここは王の墓と呼ばれる王家の集団墓の跡である。シュリーマンがあげ「アガメムノンのマスク」と名付けた有名な黄金の仮面が出土したところである。現物は、アテネの考古学博物館に所蔵されているという。アガメムノンは。ホメロスのイーリアスにでてくるトロイ戦争のギリシャ側の総大将である。しかし、アガメムノンがいたと考えられる紀元前12世紀よりも古い時代のものだそうだ。しかし、シュリーマンの情熱とロマン、見つけた時の興奮は尋常でないだろう。アガメムノンのマスクとして考えるのは素敵なことだ。直径は10m以上はある大きなもので、王宮に向かう城内の一等地に王墓があるというのは珍しい。当時のミケーネ人の死生観なのだろうか。

<王墓>

王墓

ミケーネは、神話では、英雄ペルセウスが開いた国である。ペルセウスは、ミケーネの南10キロくらいのアルゴスの王女とゼウスの子。成長して、兄に見た人を石に変えてシまうという魔女ゴルゴン姉妹、メドゥーサを討伐を命じれ、神々の与えた盾を手にし討伐に成功する。今度は、その頭を持って、巨人アトラスを石に変えてあげて苦行から解放しアトラスは山となりアトラス山脈とした、さらにはエチオピアにわたり王ケフェウスと王妃カシオペアの娘である王女アンドロメダをメドゥーサの頭を使ってお化けクジラから救出する。そして、ようやくアルゴスに帰り、ミケーネで王国を開いたという話である。相当端折ったがこの英雄譚は、どれも星座にもなっているし面白いが、省略しよう。そのペルセウスから数代後の王がアガメムノンである。とすると、アガメムノンのマスクとするよりペルセウスのマスクのほうが近いのかもしれないなあ。

さらに王墓から急坂を登っていくと頂上にでる。正面の城門跡があり、王宮跡が広がっている。王宮のこの地区は、360度の眺望があり、北から西にかけては緩やかな丘をなす陸地が広がり、南には遠く20キロほど先の海を臨むことができる。この丘から豊かであったで陸地を、そしてエーゲ海を行きかう交易船でにぎわう風景が広がり、ミケーネの繁栄の姿が想起される。いまはすっかり田舎だが、それがかえって当時を容易に想像できるのはとても楽しい。

<王宮跡>

王宮跡

王宮はいまや石垣しかのこっていないが、クノッソスに近いような構造に感じる。クノッソスには城壁がないが、ミケーネは丘を巡る周囲をしっかりした城壁が取り囲んであり、ギリシャ本土での戦争は絶えなかったのだろう。王宮の裏手には、井戸があり、この丘の上の乾いた土地であるが、水は自給できたようだ。大きな井戸のほか、階段を下っていった裏井戸のようなものも今も残されている。獅子門とは反対側の山側には裏門があり、簡素であるがしっかりした石を据え付けた実用的な門が残っている。3500年前と思うとすごいものだ。遺跡に併設して考古博物館が併設されている。主要な遺物はアテネにあるが、そのレプリカや豪華な工芸品や赤と黒で彩色された土器などの出土品や、線文字B記録された粘土板が展示されており、ミケーネ文化の豊かさを思うことができる。クノッソスとは平和的で牧歌的な穏やかな雰囲気とは異なり、馬とか兵士とかが絵柄には多く見られ、勇壮な好戦的なこの文明の性格を表しているのだろう。

<裏門>

裏門

宮殿跡から少し離れたところに、アガメムノンの倉庫がある。入場券はミケーネ宮殿と共通である。山をくりぬき、石垣でくみ上げた入口にむけ羨道を進む。巨大な空間が広がっている。その入り口の石組みは、三角形をうまく配置してあり羨道から入り口、門まで、重量をコントロールする設計である。いまはただの石組みがあるだけだが、復元をみるとこの参道や入口は彩色され美しいものだったようだ。中は巨大なドーム状の空間が広がり、奥にはもう一つ部屋があり、その奥部屋は王の墓として使われていたらしい。たしかに、豪華な入口と広い空間、アガメムノンの倉庫と名付けられているように、紀元前14から12世紀ころまでミケーネ文明後期の中心であるここにはミケーネの繁栄を支える多数の豪華なものが収納されていたのだろうか。

<アガメムノンの倉庫>

次に向かったのは、独立ギリシャ最初の首都であったナブフリオである。1821年から始まるオスマントルコの支配から独立運動がおこり、紆余曲折あるが、1830年に独立が承認され、初代大統領カポディストリアスがここナブフリオを首都に定めた記念すべき地である。その記念碑が港に建てられている。オスマントルコ以前は、第4次十字軍以降はベネチアが支配しており、港にはベネチアの要塞、海辺、そして街を見下ろす山上には立派な要塞が今もそびえている。ベネチアの支配が終了したのはクレタと同じく17世紀末、クレタと異なり駐屯兵も少なく堅固な要塞はあるものの、大した抵抗もなくベネチアは撤退した。さて、初代大統領カポディストリアスは派閥対立もあり翌年にナブフリオで暗殺された。列強は王国として国王をバイエルンから送り込み、翌1832年にはアテネを首都に移された。わずかの期間の首都であるが、最初の首都としての誇りがあるようだ。

<ナブフリオンのベネチア要塞>

ナブフリオに向かう途中、手前10キロくらいのところに、ミケーネ時代の中心都市のひとつティリンスの遺跡を通過した。立ち寄らなかったが高さ10mくらいの丘を城壁でめぐらした都市であったようだ。ティリンスもミケーネも、紀元前にドーリア人の侵略により滅ぼされ、その後復興することがないので、立派な城壁が残されており、ミケーネ時代の遺構があるようだ。

<ティリンス遺跡>

ティリンスの遺物は、ナブフリオ市内にある考古学博物館に収められている。2階部分の小さな施設である。入場料は3€。主なものとしては、ティリンスで出土した青銅の甲冑が一そろい展示している。兜はイノシシの牙で飾られており、一つの兜で40頭分あるという。猪の勇猛をうけつぐ戦士の意気込みを表すものなのだろう。こうした武具からも好戦的な海洋民族の姿が感じられる。

<ナブフリオ考古博物館 ティリンスの甲冑と陶器>

ティリンスの甲冑

14時を過ぎ、ようやく昼食タイムである。海辺なのでここは海鮮だろう。港沿いにレストランが軒を連ね、それぞれが海に向かってテラス席を設けており、いい感じである。冬なんでちょっとリゾート感はかけるが、暖かい季節はさぞにぎわうことだろう。

レストランにはいり、今度はタコのグリルを注文。前菜によくわからないパスタを注文してみた。タコは、オリーブオイルでグリルしており付け合わせもあり足一本だが満足である。前菜であるはずのパスタは、チーズたっぷりでゆうに一人前はあるので、おなか一杯になってしまった。ギリシャは両多いので要注意だ。全部で30€くらいかな。アテネより安価である。地中海をながめ海鮮に舌鼓、ベネチア時代の街並みが残る南欧の穏やかな昼下がり、ほんの一時間ほどだけど、たっぷりとその情緒を体得した感じだ。

<タコのグリル>

次は、エピダヴロス遺跡である。ナブフリオからバスで2時間ほど、16時ころに到着。17時に閉館であるので正味一時間であり、入場料はここも冬季割引の6€。エピダヴロスは、古代ギリシャの療養施設が完備されたところで、最盛時には3,000人もの病人が療養していたという。有名なのは、古代劇場であるエピダヴロス劇場であり、いまもここで演劇やコンサートが開かれるのだそうだ。しかし、施設は、広範に散らばっており、劇場のほか、音楽堂、末期患者の療養施設、入浴移設、運動競技場もあり外科手術や麻酔による治療も行われ、エジプト神殿などの神殿も多数存在していたようだ。

まず、原形をとどめ今も使用されているエピダウロス劇場にいく。劇場の中心にはオルケストラと呼ぶ円形の舞台があり、客席が結構な傾斜で半円状に美しく広がっている。音響効果が素晴らしく、100mくらい離れ30m位高い最上段の客席でも音声が同じように聞こえるらしい。実際に、劇場の中心に立ち、客席をのぞむと古代ギリシャ悲劇がここで上演されているかと思うとその熱気は容易に想像できる。最上段まで上り椅子に座って舞台を眺めてもよく見えるし、実際、中央の舞台で普通に話す人の声が明瞭に聞こえた。古代の建築技術は計算された美しさと機能はを備えたものであると実感できた。

<エピダヴロス劇場>

エピダブロス劇場

ここにも考古資料館が併設されており、エピダウロスで出土したファサードの彫刻やレリーフが展示されており、写実性の優れたギリシャ彫刻を感じることができる。

<エピダヴロス資料館>

博物館

さらに数百メートル離れたところには、巨大な療養施設の遺構が広がっている。その横には、音楽堂のホールの遺構がある。当時、健康な身体と精神は強く関連しているとされ、音楽や演劇など芸術の鑑賞は治療の一環だったということだ。

<療養所>

療養施設

ここエピダウロスは、ギリシャ神話のアポロンの子である名医アスクレピオスが祀られている。アスクレピオスは医術の守護神であり、その蛇の巻き付いた杖は「アスクレピオスの杖」として医学の象徴となっている。彼の生誕にはカラスが黒くなったいわれがあるがそれはおいといて、アスクレピオスは蘇生術を行うことができ、人間を死なせなくしたため、冥王ハディスは死すものがおらず、秩序を乱すとしてゼウスに抗議し、ゼウスはこれを受け入れ彼を殺したという。でも、その功績を認められ、へびつかい座に昇天した神である。

<アスクレピオス神殿>

アスクレピオス神殿

その北側には、大きな治療処置室があり、ここでは医者に見放された患者がやってきて、麻酔をされて幻覚をみさせるという治療が行われたのだという。幻覚療法とでもいうものか、末期患者を安心させ穏やかにすることだったらしい。また、エジプトのイシスを祀る大きな神殿もあり、オシリスの再生を行った神として尊重されたのだろう。さらには、温浴施設もと整えてあり、運動施設や競技場もあり、心身のバランスの取れた健康のための施設が整備されて多様である。健康とはどういうものか、と古代人の認識は正しいなあと思う。しかし、場所はペロポネソス半島の山中にあり、ギリシャ各地から交通機関のない時代、はるばるとやってきたのかな、と思うとさぞ権威のある荘厳なところだったのだろうと思う。

<治療処置室など>

治療室

5時に日没であり、薄暮のなかアテネに向かって帰路につく。ペロポネソス半島の東海岸をコリントスに向け北上するが、コリントスまでずっと山道で1時間くらい、民家もほとんどなく、昔も今もほとんど変わらぬ風景だろうと思うが、当時はコリントスからエピダウロスまで何日かかったかのだろうか。

途中サービスエリアで休憩し、8時ころにアテネのシンタグマ広場で解散。広場は、クリスマスツリーやイルミネーションがきらめき、市民はわいわいと楽しそう。

<シンタグマ広場、無名戦士の墓>

シンタグマから人の流れにまかせ、ブティックが連なる繁華街をモナスティラキ広場まで15分ほどクリスマス気分を味わい散策する。モナスティラキ広場は、中心に小さなビザンチン教会があり中に入ってみた。イコンが壁一面に描かれ、ドームにはキリストが見守り、厳かな内陣であった。広場からは、テラスでカフェでにぎわい雑踏で人々が行きかう上に、アクロポリスの丘が眺望でき、ライトアップされたパルテノン神殿が白く浮かび上がっていた。美しい。2500年前もにアテネの賑わいを見つめていたのだろうな、と人ごみの中で見とれてしまう。ナブフリオでの3時ころ昼食がいに重かったので、カフェでジェラートを夕食に。テラスでのんびりアテネの夜を味わい、ホテルに戻った。

<モナスティラキ広場からパルテノン神殿>

<ジェラート>

 

 

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ギリシャふらり旅②

2024-12-23 | 旅行

12月11日、ギリシャ2日目

今日は、クレタ島への日帰り旅行である。ギリシャは日本の三分の一の面積だが島がたくさんあり、航空機で往来するのが普通である。夏場の観光シーズンはミコノス島やクレタ島、サントリーニ島など、高速艇やフェリーが頻発しており選択肢は多いが、冬場は地中海も海もあれるというし、便数は激減するため、エーゲ航空での往復を選択。クレタの中心都市、イラクリオンまではアテネから50分、エーゲ海の島々を眼下に見ながらのフライト、窓際席を3€で追加して予約。テンション上がる。8時5分のフライトなので、シンタグマ広場を5時50分にバス乗る。

空港までのバスは、10~20分おきくらいに24時間運行しており、朝なので50分くらいで空港に到着。とても便利である。国内線は、Bターミナルでオンラインチェックインしていればバーコードで入場し、保安検査を受けてターミナルに向かう。朝から結構な人がおり、ターミナルのカフェはおおいにぎわう。コーヒーとバケットにハムとか挟んだものとで6€くらいだったような。いずれにしても、まあリーズナブルな感じ。ギリシャ人はコーヒー好きで、どこに行ってもカフェスタンドでコーヒー飲んであり、2,3€くらいでこれはよい。

アテネ空港を飛び立つと、右手にマラトンあたりを目にすることができる。紀元前490年、アテネは、プラタイヤ以外のポリスが参加しない孤軍で、マラトンでアテネの前僭主ヒッピアスに先導され、ダイオレス大王が派遣した海岸に上陸したペルシャ軍を迎え撃つ。重装歩兵の機動力と統率力により、ペルシャ軍を包囲殲滅し歴史的大勝利をえたところだ。ここからアテネまでの40キロを兵士が走り抜き勝利を伝達したという故事に倣って1896年の第1回のアテネ近代オリンピックでマラソン競技がはじめられたのは有名な話である。今回はマラトンを訪れることはできなかったが、遠望できたのはよい。(古戦場は写真のもうちょっと北だと思う)

<マラトン海岸付近>

エーゲ海の島 名前は何だろう

エーゲ航空のフライトアテンダントさんに彫刻のような美女がいた。ミロのビーナスやアフロディーテのよう、実際にいるのだなあ、ああいう人。彫刻のようなおじさん、ソクラテスのような人も何度も見かけたが、ビーナスはその後ほとんどみかけない。やはり後世に残るのは特別な存在なんだろうなと現実に感じる。

フライト時間は35分でイラクリオン空港へ到着。かなり設備は古くて暗い感じの空港。ギリシャ全体に言えるが、公共インフラの更新はかなり遅れている感じ。ギリシャのリーマン後の経済危機は国家が破産するというようなことが起きた記憶があるが、その影響はまだまだ残っているのかも。

<イラクリオン空港>

イラクリオン空港は、市内までバスで15分。バス乗り場でチケットを買って、どのバスに乗ればいいんだと売り場のおばちゃんにきくと、あれだあれだと指さして教えてくれる。ギリシャ人、笑顔というものに出会うことはない。愛想が悪いのか、東洋人として見ているのかというのか、と思ったが、どこへいってもそうで、結構、丁寧に対応してくれるし、とっつきにくい感じはあるが親切な人という感じだ。表情変わらないし、ぶっきらぼうな印象を受けるが、これは国民性かな。アジア人のスマイルは、特に日本時の笑いは、彼らから見るとう気味悪いかも。

バスは市内まで1.2€。イラクリオンの中心地でおりて、クノッソス行きのバスに乗り換えるのだが、チケット売り場がない。よくわからないが自動販売機があり、どうも青ラインでクノッソスには行けるようで、1.8€でチケットを購入。クノッソス行きと表示されいるバスに乗り込み、30分くらいで終点。クノッソスまで乗ったのは私だけ、バス降りたところには土産物屋があるが全部しまっている。この時期はシーズンオフなんだ。でも南だけあって晴れているので、コートはいらないくらい。東京の11月くらいな感じだろうか。

ついに来た、クノッソス宮殿。ミノス王、ラビリンスとミノタウロス、英雄テシウス、線文字Bのシャンポリオンに発掘者のエバンス。なんかあこがれていた。興味を持ってから50年近くたってようやくこれたこれた。遺跡の料金は半額の6€。入口の手前にガイドブースがあったが、何か国語も対応しているようだが、日本語はいないようだ。

遺跡は、イラクリオンから内陸に10キロくらい入ったなだらかな丘にある。エバンスが発掘して神話にある迷宮のような宮殿、豊かな表情を持つフレスコ画、謎の線文字など、ミステリーとロマンに満ち溢れている。遺跡は、エバンスが発掘し、彼は遺跡の保存にとどまらず、一部の復元を行っている。このため、フレスコ画が残っていたような場所や王宮など、彼の想像力を働かせた部分は、壁や柱、フレスコ画が一部復元されている。当時の材料を使っていないとか、現在的に言うと適切でない方法もあるようだが、当時の様子がなんとな立体としてあるというのは無理がなくてよい。

王宮跡には、壁画が復元されており、3人のクレタは美女、2頭のイルカの泳ぐ姿、王子や牛など、平和的な牧歌的な雰囲気である。クレタ文明は、紀元前の19世紀くらいからの16世紀までの第1期があり、一度、炎上した後に再建されたらしい。そして、紀元前16世紀の再建後、最大の繁栄期を迎え、東地中海をエジプト、メソポタミア、フェニキアとかの交易拠点として栄えたようだ。クレタでは、貢納王政であり、豊かな土地からあがる貢納や交易の記録上、文字が発明されて行政文書に使用されていたという。クノッソス神殿は、城壁を持っておらず、平和的な安定した国であったようだ。

<王宮跡>                  <復元部分>

<王宮のタコの絵(復元)>

伝説では、ゼウスがフェニキアのチュロス王女エウロペを見初めて牡牛に変身して背中に乗せて連れ去ったところがクレタ島である。クレタ島は、エウロペ、それはヨーロッパの語源であるが、クレタがヨーロッパの原点ということになるだろうか。その二人から生まれたのがミノス王であり、クノッソス宮殿を立て、繁栄を極めたとされる。ミノス王は、ポセイドンに捧げる牡牛を請うが、あまりの美しさに生贄にはもったいなくなり、別の牡牛をささげたのをポセイドンは怒り、妻が牡牛に恋するようした。妻は張りぼての牡牛を作らせ、その中で妊娠する。そこで生まれたのがミノタウルス、頭は牛で体が人間の怪獣であったので、ミノス王は宮殿の奥深く入ったら出てこられない迷宮ラビリンスにミノタウロスを閉じ込めた。ミノタウロスは横暴な化け物であり、男女7人を生贄に捧げることとなっており、アテネにその順番が回った。アテネの王子テセウスは自ら乗り込んでいく。クレタの王女アリアドネはテセウスに恋し、短剣と赤い糸をわたし、テセウスは迷宮内でミノタウルスを成敗し、赤い糸を手繰ってラビリンスを脱出する。簡単に言うとこんな神話、テセウスの後日譚の悲劇もあるが、それはそれぞれ味わっていただきたい。

<クノッソス宮殿の模型>            <王座の復元>

クレタは、この神話のように紀元前14世紀、ミケーネを中心とするギリシャ本土の制圧によりクノッソス宮殿は炎上してしまう。その火災の痕跡は遺跡に残っており、また、その際、記録簿も一緒に埋没したため、大量の線文字の文書が残ったという。その後、ミケーネ時代に若干の復興はあったものの、繁栄を取り戻すことなく、地中に埋もれたということだ。この神話を手掛かりに20世紀初頭、英国人のエバンスが発掘した。線文字Bはさらに50年後にヴェントリスが解読に成功した。それは、古ギリシャ語であり、文明の担い手がギリシャ人であることが判明した。線文字Bはミケーネでも使用されたが、ギリシャでは文字は消滅し、アルファベットの発明まで数百年を暗黒時代となる。

こんなことを思い出したり、ひたっていると、いつの間にか1時間くらいが経過してしまう。王宮は、傾斜地に建てられ、4階建てであったらしい。王妃のテラスは3面が開放された明るい空間であり、さぞかし豊かな文化的な生活がくり広げられていたであろうと思う。

<王妃のテラス>

遺跡には、発掘した遺物が保管されている資料館が併設されている。フレスコ画などの一部のものはイラクリオンの博物館に展示されているが、発掘された土器や青銅器が展示されおり、昔をしのぶことができる。

さてバスで市内に戻ることに、バスの乗客はまたも一人、チケット売り場がないのでvisaデビットでタッチ乗車。2.5€、チケットを買った場合とそうでないと値段が違うのかな。まあ、400円くらいなので良しとしましょう。

市内のバス停でおりて海辺の要塞へと向かう途中、お昼ごはん。せっかくクレタに来たのでここは海鮮のグリルを食べようときれいそうなお店に入る。この店、海辺に建っており、ベネチア要塞が一望でき、ギリシャらしくテラス席に着席。ガイドブックにも載っているVenetoというお店だけど、誰もいないという不思議。最高の空間を独り占め。さて、注文は、クレタサラダとイカのグリル、ギリシャコーヒー。クレタサラダとは何者だろうかと思うと、たくさんのトマトの上に、たぶんヤギのチーズ、とクラッカーのようなパンを主体にオリーブオイルベースのドレッシング。これでもかとトマトが入っている。健康的。タコとイカと迷うが、今回はカラマリという名のイカのグリルに。余裕があったらタコのリゾットを追加だな、と思う。タコは西洋人は悪魔であるとして食べないものと思っていたが、クレタではタコは古代クノッソス土器の壺の図案にタコがたくさん使われており、昔から生活に密着した食べ物として伝わっているのだろう。イカのグリル、オリーブオイルとハーブで味付けてあり2はいあった。けっこううまいぞ。醤油もいいけど、これはいける。日本人好みの味付けだな。こういうイカやタコを好んで食べるなんて日本人と同じだと思う。ギリシャコーヒーは、細かい粉にお湯を注いだもので、サーブされたときは粉が浮いている。粉が沈むのを待って上澄みを静かに飲む。ベトナムコーヒーと同じだが甘くはない。濃厚な味である。

海辺に建つベネチア要塞は、歴史を語る建物である。食後にここまで歩いて向かう。港の入り口にそびえる要塞で、要塞の入り口には有翼金獅子、ベネチアの象徴が門の前面に掲げられている。中世の地中海を巡る攻防の舞台であることを思い起こされる。

<要塞の入り口の金獅子>          <カンディオの絵図>

要塞は、港を守るように、大砲が360度配置され、弾薬庫や兵士の待機室など、当時のままの姿が残されている。要塞から街をみると、あつこちに海に向かってアーチのついたレンガつくりの建物が海に面している。当時、造船のドックに使用されていたのだろう。当時、イラクリオンはカンディオと呼ばれ、1204年の第4回十字軍以降、ベネチアが領有し、東地中海の拠点として繁栄していたが、オスマントルコが興隆し、地中海の覇権を争い続けた。オスマントルコがキプロス、ロードスに続き、クレタに17世紀侵攻する。カンディアは、要塞としてとして整備され、1689年までの21年間、オスマントルコの包囲され続け、これに対抗し続けたそうだ。その最前線がこのベネチア要塞、ロッカ・ア・マーレともいうらしいが、堅固な守りと五稜郭のような陸上要塞で防衛されていたそうだ。港はドックや倉庫が整備され、要塞を支えてそうだ。1689年、オスマントルコの猛攻にフランスのルイ14世は軍隊を派遣するも要塞は陥落し、ベネチアが撤退する。その後、オスマントルコの支配が続き、ギリシャの独立後もオスマントルコの支配が続き、1898年クレタ蜂起を契機にギリシャ王国が攻めるものの、オスマントルコに敗れ、住民数万人が虐殺されたらしい。その後、オスマントルコを抑えるべく列強の介入でオスマントルコは戦争には型物の、クレタをギリシャ領とせざるをえなくなり、ようやくギリシャに復帰したという歴史があり、ほんの百数十年前のことであるあが、いまは平和な穏やかな島である。3500年前は、最先端の文化地域だっただろうが、この海と太陽は変わっていないのだろうな。

<ベネチア要塞>

次に、イラクリオン考古博物館を訪れる。ここも半額の5€。クレタ島内での古代資料は、アテネではなくここに保管展示されているので、クレタ文明を味わうにはここを訪れないといけない。さきほど、クノッソス遺跡で復元をみたフレスコ画の原本が展示されている。また、クノッソス神殿の模型があり、ラビリンスというにふさわしい複雑な構造を見ることができる。実際に、遺跡で見た石の配置などが立体的に理解できるのは大変すばらしい。クノッソスのシンボルはダブルアックス、両斧というのかな、儀式ではこれを奉納していたようだ。普段使いの壺には、タコや木、花などがあしらわれ、女性の豊かな表情の人物画、農耕系の穏やかな牧歌的な図柄である。ミノア文明が農耕的な平和な穏やかな文明であったことが展示品からみてとれる。これから本土で見たミケーネでは、戦闘している図案や基盤などが中心であり、同じミケーネ文明であり連続的ではあるが武力を重視した文明に変質していることがわかる。

<クノッソス国立考古博物館ー蛇を持つ女性>  <タコの陶器>

蛇使いの女性

14世紀にミケーネにクノッソスは滅ぼされた後もそれなりの繁栄が続くが、ミケーネが崩壊した紀元前10世紀以降の遺物は明らかに質が下がっており、時代の流れ、クレタの古代文明が終焉を迎えたようである。展示は、クノッソス以外のところからの出土品もある。

<ユリの王子壁画>           <イルカ壁画>

ユリの王子の壁画イルカの壁画

<三人のクノッソスの女性>

また、象形文字、線文字AやBが刻んである粘土板が展示しており、教科書で見た線文字を生で見れたのは楽しい。粘土板に刻むから刻む道具を考えると、こうした線文字というのが使いやすいのだな、と思う。線文字Bでも文字数は数百を超え、粘土板の出土の少ない線文字Aや象形文字は解読されていない。線文字では行政官の記録に使われただけであり、伝承や文化的な記録はないので、当時の生活は出土品やギリシャ神話から推定するしかないようだ。クノッソス遺跡とこの博物館でクレタ文明の姿を十分に味わうことができた。

<線文字Bの粘土板>

フライトまで時間があるので、イラクリオン市街を散歩。こじんまりした街だが、カフェやショップでそれなりに賑わっている。街の中心の片隅にエルグレコ公園があり、彼の彫像があった。エルグレコはスペインの画家と思ったが、ここクレタの出身だそうだ。ほー。その周りにあるカフェで、ジェラートだ。テラス席でピスタチオとティラミス、大きいよ。5.5€。クレタの昼下がり大満足です

<エルグレコ公園>

エルグレコ公園の像

空港にバスで戻り、18時25分発のエーゲ航空でアテネ空港へ、そしてバスでシンタグマ広場へ21時ころに到着。夕食は、シンタグマにあるレストランへ。ここは串焼き。スブラキというもので、豚や鶏の炭火焼き串を数本に、ピタ2枚、ポテト、トマトにサワークリームがついた一皿。これにサラダとジュースをつけて注文。串焼きは、イスタンブールの串焼きに似ている。豚が食べらることが違う。豚肉が香ばしく焼けており、クリームをつけて付け合わせとあわせてピタで食べる。最高だね。これをまいて紙で包むとギロ、ギリシャのソールフード、うまい。レストランであるが、25€くらいだったかな。満足です

<スブラキ>

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ギリシャふらり旅①

2024-12-20 | 旅行

成田空港へは新宿を1739発の成田エクスプレスで出発。新宿駅の成田エクスプレスは、代々木方面の一番南であり、結構乗換に時間がかかるので要注意だ。1階下のホームにつくと、最後尾が見える。12両編成なので、座席は最後尾の1号車がよいだろう。先頭の12号車だと延々とホームを歩くことになるので荷物ごろごろが面倒である。19時ころに空港について、カウンターに向かう。

カタール航空のオンラインチェックインは48時間前から可能であるので、事前に済ませておくことができる。座席指定は、最近あり勝ちの事前指定有料で5000円くらいであったのでパスし、オンラインチェックイン時にシートマップから選択した。比較的すいているようで、ドーハまではセンターの通路側を選択する。ドーハアテネは5時間のフライトなので初めて飛ぶのはどんなところか、窓側を選択する。

one world サファイヤを持っているので、エコノミーではあるがさくらラウンジで一休み。ここで日本食をたべてしばし日本とお別れをする。夜でもあるので、ラウンジはガラガラだ。

カタール航空は、評判がよく、世界NO1ともきく。安定のサービスと思う。エコノミーでも、アメニティが配られ、アイマスク、耳栓、靴下が入っている。長距離便にはありがたいサービスである。機内食は、出発後すぐに夕食が出て、到着前に朝食っぽい感じの2回サービス。食事はとり、魚、ビーガンの3種から選べてなかなか安定のおいしさだ。

ドーハには約13時間ので現地時刻4時40分ころに到着。日本との時差は6時間である。到着後乗換でもう一度保安検査をうけて、ターミナル内部へ。ドーハのアハド空港は、24時間眠らない空港であり、ショップもたいていが開いているが、さすがのこの時間は閑散としていた。one world サファイヤもっていれば、ビジネスラウンジに入れるのだが、カタール航空のビジネスラウンジ(これ結構有名で利用してみたいんだけど)は入れません。でも、下級のラウンジにははいれたので、まあpremium /gold lounge というところでしばしくつろぐことに。それでも普通のラウンジ並みのサービスなので文句はないな。

アテネ行きのフライトは740発で焼く5時間で到着する。直前にシリアのアサド政権が崩壊したというし、イスラエルはガザ進行しているし、どういうコースで飛ぶのかなと興味津々である。ドーハまでは、インド、パキスタンから海へ出てアラビア半島を回り込んで飛んだ。つまり、アフガニスタンとイランを避けているわけだ。今度は、イラクを縦に北北西に進み、トルコの東側にはいりアナトリア高原をそのまま西進し、イオニア海を越えてギリシャに入った。モスルの上空も通っていたのでイラクはいまや安定ということで、つまりシリア、イスラエルは避けていのるということのようだ。

ちなみに、アテネからの帰りのフライトではエーゲ海を南東に進み、エジプトのシナイ半島を南下、さらにアカバを横目でみながら紅海をしばし南下し、メジナの北をアラビア半島を横断するルートであった。イスラエルを避けるとこうなるんだな。帰りの日本へのルートとしては、ペルシャ湾をアラビア半島沿いに南下し、アラビア海からパキスタンから北インド、東インドからミャンマー北部を通過して中国にはいっていた。ミャンマーも問題なしということのようである。やはりイランは上空通過しないようだった。ロシア、ウクライナ、イランの上空をとおれないというのは結構な制約であると思う。

アテネには、ほぼ定刻の11時40分についた。EUはビサを必要としないし、入国書類も税関書類もいらない。入国は指紋も取らないし、質問もなく、なんと簡単に通過できた。アテネ空港は小さい空港であり、すぐに出口である。国内線と国際線はとなりの建物であり、市内向けのバスは国内線のほうにある。国内線のほうに建物横の歩道を100mも歩けばバス乗り場がみつかる。市内へのサクセスは、バスが一番便利で安い。市内まで、1時間程度で5.5€で900円くらい。地下鉄ならば9€で40分くらい。市内の中心地シンタグマ広場行きX95系統に乗ればよい。市内へはほかにもバスターミナルなどへ行くバスが頻発しており、料金も同じでとても便利であるバスに乗ったらチケットを改札機にタッチすれば、タッチ音と緑色mに画面がかわるのでOK。それやらないと無賃乗車になり、60倍の料金を取ると書いてあってからきちんとやることも大事。実際に、帰りのアテネ空港行きのバスで係員が確認して回っていた。

市内のシンタグマで降りる。ここは無名戦士の墓の目の前で、衛兵の交代式が有名なところである。バスが広場につく前に、交代に向かう衛兵が行進して向かっているのもおもしろかった。広場は、200m四方くらいの小さなところであるが、クリスマスにむけて準備中であった。

宿泊は、今日から3泊をアテネにするので、アクセスのよいところで広場から歩いて1分のところを予約した。ホテルを予約したつもりがアパートメントであり、いわゆる民泊であった。しかも、そこは無人であり、パスワードで入室できる方式。人と関わらなくて済むし、リーズナブルであるから良い面もあるのだが、チェックイン時間が15時であって、13時半についたがフロントもなく入室もできないため荷物預かりが不可能であった。

初日の予定であるスニオン岬へは、バスで2時間ほどかかるので、ローカルバスだと不安だったので、現地ツアーを予約しておいたが、14時スタートなので入室はできない。しかたないから荷物抱えてツアーに向かうしかないので、ごろごろと町中を。

目標地点は、アテネのあるアッティカ半島の最南端の崖の上にあるポセイドン神殿。だいたい70㎞くらいで2時間とのこと。ツアーといっても、バスでそこへ往復するだけであるが、料金も3000円ちょっと、現地バスは片道6€なので、超お得な値段設定である。

バスは市内を西へ進み、ピレウス港へ。古代の時代からアテネの玄関口で、テミストクレスが軍船を整備し、アテネ市内との往来を強固な城壁で固めたという地。もはや古代の面影はまったくないが、たくさんのフェリーや貨物船が停泊しているのを見ると、そうかあと感じる。最近では、シリアの難民がEUをめがけて、ピレウスに押し寄せてきたニュースや中国が資金出して借り受けたとかのニュースが思い起こされる。ギリシャにとって重要な拠点であることは変わりないだろう。

右手に海を見ながら南下していく。途中一か所、海辺の湖、ヴォウリアグメニという湖に立ち寄る。結構深い湖で、リゾート施設となっている美しい湧き水の湖らしい。

アッティカ半島の風景は地中海性気候で地理の時間に学習したそのままの感じ。オリーブの灌木が延々と広がり、岩肌もあちこちみられる山がちの地形をくねくねと、民家は白壁にオレンジ色の屋根。夕日が差し込み、キラキラと光るエーゲ海沿いのアポロン海岸と呼ばれるところを進んでいく。

<アポロン海岸>

アポロン海岸

アポロン海岸

およそ2時間弱かかって16時ころにスニオン岬に到着する。住温岬の駐車場にカフェが1軒だけ。200mくらい先の丘の上に柱だけが建つポセイドン神殿をめざして夕陽の中を遺跡に向かう。入場料は、冬季は半額の6€。ちなみに、ギリシャはどこでもそうだが、クレカが少額でも使える。タッチ決済がとても便利だ

ポセイドン神殿は、アッティカ半島の南端の崖の上に建つので、270度の視界で海が広がる。大理石が夕日に映える。この岬にたって思うに、紀元前478年にこの岬を回ってテミストクレスは、この地に立ったとだろうか。アテネ全体をサラミス島に避難させて艦隊を集結し、その時を待ったたのだろう。大王クセルクセスは、アテネを制圧、炎上させ、艦隊をサラミスに向け、艦隊の上からだろうか、大軍を率いて自信に満ち溢れ岬を回遊しただろう。2500年も前の出来事がそのままの姿で変わらず海は広がっている。なんとも感無量だ。

<ポセイドン神殿>

夕陽の沈むまでの1時間ほど、岬にたたずむ。世界史って、すごい。ロマンだ。

<スニオン岬からの夕日>

神殿はかつては彩色され、鮮やかな輝く神殿であったのだろう。内陣には、三又鉾をもった黄金色のポセイドンの巨象が据えられていたようだ。海上からも、遠くから輝いてアテネのピレウスを往来する船舶はアテネの繁栄を目の当たりにしたのだろう。

<ポセイドン神殿>

神殿は丘の上であるが、周辺には関連する遺跡が散在しており、ヘレニズム時代の駐屯していた施設跡とかある。まあ、石積みの基礎が残っているだけなので、なんとも想像するのは難しい。これはギリシャのどこでもいえることだ。でも、この遺跡感というか、昔の繁栄の跡が静かにたたずんでいるのが歴史を物語り、感じ入るものだ。

日没が17時5分だったのでバスの戻り、また2時間ほどで7時ころアテネ市内へついた。

アテネ市内行きのバスの停車場に時刻表があった。ギリシャで時刻表があるのは極めて珍しい。日没後に最終バスが出るようで、季節によって時間が変わっている

<スニオン岬バス停の時刻表>

シンタグマ広場はこれからって感じで人が出始めたくらい。ギリシャ人は夜遅いスタートらしい。夜ごはんに行こうかと思ったが、眠いので今日は20時にはおやすみ。なのだけど、アパートメントは繁華街に面しており、このころから喧騒の真っただ中である。夜中の1時ころ目が覚めたが街は相当な喧騒が続いていた。

ここで注意しないといけないのは宿泊である。ホテルはフロントがあり、なにかあっても対応してくれるし、荷物も預かってくれる。アパートメントは基本的にそういったサービスは期待できない。実際、今回のアパートメントNikis 20, Athinaは場所は最高であるが、荷物は預けられない、シャワーのお湯は初日機能せず、2日目は操作法はわかったものの、30度くらいだろうかぬるい、というか冷たいお湯しかでず、とてもではないが快適な時間とはならなかった。広くて安いがよく考えないといけないな、ということだ。3泊で日本円で25136円。ちょっと割高だ。

 

 

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ギリシャふらり旅

2024-12-20 | 旅行

ブログなるものはやったことはないが備忘録として書いてみようと思う。

古代史大好きな私は、西洋の原点であるギリシャをざざっとまわってみることにしました。

今年の講談社から発刊されている地中海世界の歴史、その第3巻が10月に刊行され、これを読んでいるうちにこの地を訪問しなければ、といてもたってもいられず、航空券を予約しようと、、、。

12月の最安値をサイトで検索すると、なんと燃料サーチャージ込みでアテネ往復116700円とな、評判高いカタール航空でドーハ乗り換えで。意外と安いんだね、と思い、9日成田2155発、19日羽田0100着を衝動的にぽちっと。

10日1140にアテネについて、17日の1850にアテネ発なので、ギリシャには、7泊8日滞在可能である。これはたっぷりまわれるぞ、とプランニング開始。

アテネ以外で行きたいところは、、、古代史的に考えると、クレタ、スパルタ、デロス、デルフォイ、オリンピアになる。

ペロポネソス半島はアクセスが悪く、いまや田舎であって交通の便が大変らしい。現地ツアーを上手に使うのがよいというのが実態のようだ。デロス島はいまは無人島で、ミコノス島から船で行くらしい。

ピレウス港から船でミコノス、クレタと回ってこようと計画を試みたが、ギリシャの観光シーズンは、10月まででそれ以降は、極端なオフシーズンで船での周回は無理っぽいので断念。もったいないが、クレタを日帰りで、デロス島はパスすることにして、以下の計画で欠航することにした。

9日 成田 → 

10日 (ドーハ乗換)→ アテネ  スニオン岬でポセイドン神殿 アテネ泊

11日 アテネ → クレタ(イラクリオン) → アテネ アテネ泊

12日 ミケーネ遺跡、エピダブロス遺跡を巡る日帰りツアー    アテネ泊

13日 アテネ → スパスタ ミストラ遺跡 スパルタ → ピルゴス  ピルゴス泊

14日 ピルゴス → オリンピア → アテネ  アテネ泊

15日 アテネ → デルフォイ → カランバカ カランバカ泊

16日 カランバカ メテオラ修道院群 カランバカ → アテネ アテネ泊

17日 アテネ市内めぐり アテネ →

18日(ドーハ乗換)

19日 羽田

現地での交通手段については、KTELというそれぞれの地域でバスが走っているものの、HPをみても必ずしも情報が十分でないので、現地での行き当たりばたりってこともありかな。

スパスタにはKTEL ラコニア、カランバカへはKTELトリカラとか、それぞれがそれぞれの運行していることろしかHPにのってないので,個々に確認する必要があるようだ。チケットはアテネとの往来について、オンラインで予約決済ができるので便利ではある。KTELで横に移動するのは難解であり、本数も少なく大丈夫かなという感じ。スパスタからピルゴス、オリンピア、デルフォイ、カランバカと横移動できれば効率的である。バス移動に関して、注意すべきだったのが、平日と週末の本数である。ギリシャは観光地だから、週末は本数が多くなるだろうと何も考えずに計画をたててしまった。しかし、ギリシャの地方バスは、土曜と日曜は驚嘆に本数が減るのだ。また、横の移動は週に数回とか、毎日出ていないのだ。先に、クレタの航空券を確保してしまったので、週末にどうしてもかかってしまう。これが地方巡りの最大の難点であり、実際にひどい目にあったのである。

鉄道は、アテネ近郊に走っているのと、第2の都市テッサロニキ間で走っており、全土での利用は限定的である。ギリシャ国鉄は、経営難から上下分離で運用されているようで、それまではペロポネソス半島にも鉄道が張り巡らされていたが、今はコリントスの先までしか走っておらず、廃線となっている。アテネからカランバカまでは鉄道があり、直通もあったらしく5時間かかるが、カランバカまでは洪水で不通になっているおり、ファルサロスから代行バスで2時間を要するようだ。オンラインで予約もできる。

アテネ市内は、地下鉄やバスが縦横に走っており、アクセスには問題なさそう。 

ということで、出発前に、航空券、ホテル、現地ツアー、現地バス、鉄道、予約できるところは準備した。

これから8日間の旅行記を記録する。

初めてのブログであり、写真をうまく取れていないし、文章は感傷的な自分のその時の思いを書いているので読みづらいし、内容は適当なものである。

 

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