My Life

わかりにくいタイプの毒親育ちです。これまでの人生の整理とこれからの新しい人生の為に。同じような親をもつ誰かの為に。

真諦と俗諦

2017-03-22 | 毒親育ち

世間のあり様とずれた親に育てられると、統合を失調しやすいと考える。

ここで私が引き合いに出すのは、世間のあり様よりはるか上のレベルにいる親のことである。

そういう親に育てられた子どもは、つまるところ喰うか喰われるかという大変レベルの低い修羅の世界に身を置かなければならない場合、適切に守られず、自分を適切に守る術を知らないままその荒き蠢きの中に放り出される。


私のよく知っている例。

その親は、社会をよくする活動を行っており、自分の私利私欲、損得勘定で動いたりしない。社会的に弱い立場に追いやられている人たちのための活動を行っており、自分や自分の家族といった「身内」を犠牲にして、社会をよくするため、気が遠くなるような長く険しい道のりのほんの少しを担う、地道な活動をしてきた人である。
その人は、自分が支援に携わっている社会的に弱い立場にいる人達の社会的団体から、搾取、利用、たかり をされているという、反論の余地のない側面に気づいていていてもやめないで、支援、献身し続ける。その人は、その団体の人達に友情を感じているし団体の人達もその人を信頼している。でも、この人達は、その自己犠牲の人を上手に利用していた。もしその人の幸せ、その人の家族の幸せを思うならできない頼みごとをひっきりなしにした。

この人は、身内を大事にすることを頑なにせず、社会をよくする活動をする。

この人の子どもに起こったこと。

社会を構成する、大多数の人々がどういう考え(=浅ましい考え、動物的な感情)で動いているかに気づくのが大変遅くなった。つまり、人を食い物にするハイエナのふきだまり、ということに気づくのが遅くなった。世の中の大部分の人は、そんなにいいものではなく、ただの動物であることに気づかなかった。そのせいで、不当に損をしたり、傷つけられたり、権限を踏みにじられることに鈍感になり、格好の餌食としてヒト科の動物たちに食い物にされ続けた。それを不当と気づかずに受け入れてるので、ハイエナたちにさらに利用され食い物にされた。その繰り返しにより、ようやく社会の実際に自分で気づいた時に、大きなショックと、親への嫌悪感を強く抱いた。

日本人の多くは、知性や理性、信条や哲学ではなくただヒト科の動物として動いている。心理学は、人がつまるところ反射的な動物、クソなのを証明する学問だ。

その親は、自分がそうではないから、過ちを犯した。
他の大多数の人は、浅ましく反射的に動くということを理解しないで行動し、そのせいで子どもは不利益を被ったし、適切に守られることがなかった。突き放された、という状態である。

例えば子どもが、誰かの迷惑行為の繰り返しに苦しめられてきて、これを止めさせるために色々と努力しているという場面。法的にも、理屈でも、いわゆる道義の面でも、子どもは正当であり相手が不当なことをしている。そこに、その親はそれを邪魔するようなこと、水を差すことを平気でしてくる。その行為が「邪魔」であることは、誰の目にも明らかにわかることなのに、その親はわからない。それは、この親が人間というものに対して、ずれた認識をしているからだ。

例えば、知性や教養の備わった思慮分別ある人はAという情報を聞いても、だからといってその子の言ってることが正当であることには変わりないと理解できる。しかし、それは日本には少数派の思慮分別ある人の話であって、大多数の人はそのAという情報によって、安易に心を動かされ、心証を変える。多くのヒトは、そんなに高い解像度で物事を見ようとしていない。ただ雑に安易に情報に飛びついて振り子のように動かされているのである。人は簡単に心理を操作される。こういう、人の無意識、動物としてのヒト、統計としての心理学を看過しているため、不適切な「邪魔」を平気でするのである。これは、自分自身が世間のあり様と大きくずれているからである。

子どもは、このような「邪魔」を本来1番の味方であるはずの親から、当然のようにされてきたが、親のすることなのでそれを受け入れてきたし、家の外で、明らかに「邪魔」や「攻撃」や「嫌がらせ」をされている場面でも、それと認識できず、格好のターゲットとなり不当に傷つけられてきた。

もっと深めてみると、この親は、無意識に子どもの幸せを願っていなかったのではなかろうか。
母性とは、理屈抜きに子どもを外敵と思われるものから守ろうとする。(そのことが、社会全体を殺伐とさせることと表裏である。)自分の子どもを守ることが本能的に絶対である。でも、この母親はそれをしなかった。これは、普通の親からはとても不思議だろう。

この人は、インテリで歴史や社会哲学などにも通じており、自分の損得勘定では動かない人だ。この人が自己を犠牲にして社会的弱者のために、仲間と、あるいは1人でも闘ってきたのは紛れもない事実である。世間一般の、自分の損得でしか動かない多数のヒト科の動物たちとは一線を画す。この人を尊敬する人はたくさんいる。

でも、その人の子どもは統合を失調していてうつ病にもなっているし、母親のふつうの温かみ、守られるという安心感を感じないでいる。この人は、「知性」を大事にした。でも、世の中は知性では動いていない。動物としての損得勘定で動いている。

この大きなずれは、子どもを苦しめる。

ヒンズー教の「真諦と俗諦」である。究極の真理と、俗世間の真理 どちらも欠いてはいけないのだ。
俗諦が著しく欠けている親に育てられた子どもは、現実の修羅の世界においてとても傷つき苦しむことになる。

苦しみの果てに、俗諦を嫌と言う程身をもって知った子どもは、可哀そうなだけではない。

その後の人生、親を超えて上を行くことになる。