My Life

わかりにくいタイプの毒親育ちです。これまでの人生の整理とこれからの新しい人生の為に。同じような親をもつ誰かの為に。

運動体の犠牲になった家族①

2017-07-05 | 青い芝の会の犠牲になった家族

親は、エホバの証人ではないし、ヤマギシ会のような共同体で育ったわけではないけど、カルト的な親や共同体のもとで育った子供がどうなるか というのに自分がすごくダブる。エホバやヤマギシ、あるいは運動家のもとで育った子供がどうなっているか、調べている。自分事として。そして、彼ら彼女らの言葉を見ると、哀しさがこみ上げてくる。すごく、わかるんだ。

私は、親によって自分に起こったことを、まだ理解しきれてない。消化しきれてない。でも、親が、私にとって大きな罪を犯したことは、間違いない。このことを考えると、胸が苦しくなって、涙がこみ上げてくる。私はずっと思っていた。「普通の親がいい」って。


善意による否定が重い


という、エホバに対する言葉を見つけた。それが、言いたかった。

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母は、社会的に虐げられて差別されている人達を徹底的に支援してきた。自分の時間、エネルギー、お金を使って献身してきた。その運動は、1つではなく、障害者だったり、女性だったり、韓国人だったり、その他差別をされる立場の人々である。

母は、自分の浅ましい損得勘定などでは動かない。信念で動く。私は、彼女が自分の理念に矛盾したことをしているのを、見たことがない。そんな母は、俗悪な人々を遥かに超越した存在である。

でも、私は幼少の頃から、守られている感覚(心理学で安全基地といったりする)をもつことはなかった。安心できない、心もとない気持ちでいた。

母は、社会のために身を粉にしてがんばるのに、どうして私をこんなに不幸にして平気なんだろう。

母は、ただでさえ超多忙な激務の職業をしていた。2人暮らしをして社会運動をしている重度脳性まひ夫婦への献身をしていて、夜な夜な呼び出され(介護の依頼)、4人の子どもたちを家に残して、大晦日でも正月でも、車で片道50分かけて駆けつけ介護にいく母。全部無償で。ガソリン代すら無償である。その障害者2人暮らし宅には私もついて行き手伝わされたことが何度もあって、そこには食事代を要求するビンがあった。介護には、食事、家事、排せつ、生理の世話、イボ痔を肛門に押し入れる世話、風呂入れ、sex介助、畳の部屋に置いてあるトイレの排せつ物を本物のトイレに流す作業などあらゆる営みが含まれていて、食事を作る際に介護者が自分もついでに食べることがあった。例えばそうめんとかパンとか。その代金をビンに入れろというのだ。無償で介護をさせておいて、ついでに食べた食事代をビンに入れろと。「どこまで厚かましいのだ」という一般人の意見に母は真っ向から反論し、毅然とお金を入れて、無償の介護を続けた。介護は激務であるため、母はぎっくり腰になったがもちろんなんの保障もされず、自腹で治療をした。

無償でする障害者の介護、弱者への徹底的なより添い、支援は俗人にはできないことで、尊敬されることである。だからこそ苦しみが続いた。私が嫌だと思うのは間違っている、母は正しいって。私は子どもだったから、母が正しくて、あの障害者運動家のやっていることや、そんな障害者を無償で介護・運動支援をし続ける母に対して「おかしい」と言う普通の感覚の人達を、徳の低い、間違った人達だと思って処理してきた。

私は「行かないで欲しい」と思って心では哀しかった。でも、母は正しいことをしているのだから、そう思うのは間違っていると思っていた。

母は本職はもちろん激務で、家事も父はしないから母と祖母がやって、社会をよくする運動に忙しく、家では留守が多かった。私たちの気持ちよりも、もっと大事な、優先すべきことがある というメッセージを常に受け取ってきたのだ。

それって、やっぱりおかしい。私が大人になって思う。

恋人とのsexやパチンコや麻雀に忙しい母ならもっとわかりやすいが、弱者への献身に忙しい母は、毒親認定するまでとても長い時間がかかった。弱い立場の虐げられた人達に身を削って献身する人を、「お前おかしいよ」って言えるまで、時間がかかった。

似た話は、聞いたことがあるし、映画にもなっている。社会運動にのめり込んで家庭崩壊する女性の話。

社会運動を非難してるんじゃない。

社会運動で、家族を犠牲にすることを問題にしてる。

母は、頑なに、自分の身内に利益を計ることを拒んでいるようにさえ見えた。社会をよくすることが大事で、自分たちや身内のことはえこひいきしない。という態度だ。私は、この態度は間違いであると今はっきり言う。

無茶な要求を子供に強い続けた親である。また、あの障害者運動家夫婦も、無茶な要求を母やその家族である私たち、ひいては社会に強いた人である。

「重度脳性マヒ同士で結婚して2人暮らししている、お前らのことなんか、知るか」 と、今私は言う。
母は、そんな排除の社会と闘ってきた。この闘いを見せるために、私をあの臭い家に連れて行って手伝わせた。でも私は大人になって、このことがどれほど私や他の家族の精神に禍をもたらしたかを思うと、上のように考えるしだいである。

彼ら脳性まひ夫婦のことは、国の問題、社会の問題。彼らは社会を変えるために、重度脳性まひ同士で結婚して2人暮らしをしている。彼らを死なせるわけにはいかないから、母は急な介護要請に駆り出されて車で50分の距離を往復して、無償でしに行ってる。食事を作ってやって、介助して、ついでに食べたパン1個でもビンに金を入れる。

彼らを、社会運動家としてどう思う?私は、その犠牲となった者として、最低のタカリ屋だと思う。時間や金やエネルギーだけじゃない。高尚な精神へのタカリである。母を利用して搾取している。

母もおかしい。

彼らは、親の障害児殺しや命の選択に対して真っ向から闘っている。障害児を苦に殺した母親への減刑に猛反対した。障害者は殺されたって仕方がないのかって。

その闘いの犠牲となった私が感情のままに言うならば、彼らは早くに死んでくれていたら、私も、私のきょうだいも、父も、祖母も、その犠牲にならなくて済んだのに。一番犠牲となったのは紛れもなく母だが、周囲の苦言に聞く耳持たず、献身し続けたのだから、犠牲者リストには入れない。

今まで「イヤだ」「行かないで」「お母さんをとらないで」「どうしてお母さんに頼むの?」と言わないで哀しいのを押し殺してきたのだから、今度は言わせてもらう。

運動の為に、人の家庭を崩壊させて、いいのか。

社会全体、国いや世界全体の問題を、なぜ母が背負い、その家族がそのことで苦しみを背負わなければならない。

このことは、いまだに、私を怒りで打ちふるわせる問題である。

 



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