親などに、気持ちやニーズを無視、度外視された子どもは、自分の気持ちを「なかったもの」として処理する。抑圧とか切り捨てとかいう。その子がどう感じているか、どういうニーズを持っているかに注意を払われず、無視され続けたら、その子は自分のそれらを「なかったもの」として処理するしかないだろう。それは、当然のなりゆきだと思う。
でも、外、社会に出れば、人の気持ち、感情に対応することをずっと求められる。
自分の気持ちを瞬間凍結させられてきたのに、他人の気持ちやニーズには対応することを社会的に求められる。自分が自分に対してすることを強いられ続けたことを、他人にしてはならず、逆のことをしなければならない。こんな不幸な不均衡があるだろうか。
保育園の時のこと憶えてる。「行きたくない」と泣いて柱にしがついて抵抗している子を見て、「育ちがいい」と思い、カルチャーショックを受けた。自分の気持ち、ニーズをあんなに主張するものだと思っていて それでなにかが変わる と思ってることが、自分と育ちが違うと感じた。
母は、社会的弱者(脳性まひとか、差別される立場の人とか)のニーズ、気持ち、感情に徹底的に寄り添い、その考えを私たちにも啓蒙するのに、私たちの気持ち、ニーズは無視、切り捨て続けた。
私は、酷いダブルバインド下にいたように思う。
母は知的で哲学的で、いわゆるリベラルな思想をもっていたし、自身がその信条に矛盾なく生きていると思っていた。でも、無意識には福岡の生まれ育ちによる、刷り込み・思い込みが彼女にもしっかりあった。本人は気づいていないけど。しかも、その九州的な常識においても彼女は、ふつうの九州女よりも優秀な側面さえあった。
本当に突き抜けていたら、 よかったのに。
無意識と意識が同じ方向向いてたら what he thinks, what he says, and what he does are in harmony だったら、私はそんな人に強く魅了される。そういう人は男でたまにいて、いい匂いの風を感じる。一般的な常識 common sence と全然違うけど、彼はそれを無意識からそうだと信じきっていて その泉から、自然に行為や言葉として流れ出てくる そこにはなんの過剰な緊張 tension 抵抗 もなく、当たり前にそうするのである。そんなハックルベリーフィンと出会ったら、いいようもなく魅かれる。呼吸が自由にできる。私がそれに共感しようがしまいが、いい気持ちになる。
私は、互いに矛盾するメッセージに二重に拘束されていたように思う。どっちに行っても塞がれる、窒息感がある。精神の監禁状態である。
また話が逸れてしまったけど、自分が自分に対してすることを強いられ続けたことを、他人にしてはならず、逆のことをしなければならない不幸な不均衡について記した。
参考文献:「子どもを生きればおとなになれる」クラウディア・ブラック著
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