理研の特別顧問が、小保方氏のSTAP細胞再現実験の際、監視カメラを使うことについて、「世の中にはそこまでやらないと、彼女が魔術を使って不正を持ち込むのではないかという危惧があるのではないか」と語ったそうですね。
私が見るところ、彼女は稀代の詐話師だとは思いますが、魔女だとは思いません。
理研の大幹部としては、不適切な発言のように感じます。
魔女というと、現代ではアニメやドラマなどに登場する、愛嬌のある若い女性というイメージがあります。
ちょっと古いですが、「奥様は魔女」だの、「魔女っ子メグ」だの、「魔女の宅急便」だの。
要するに魔術が使えるというだけで、悪魔を崇拝し、仕える伝統的な魔女とは似て非なるものですね。
魔女の概念は非常に多様ですが、大雑把に言って、悪魔を崇拝し、悪魔と性的関係を結ぶなどして契約を交わし、強い魔力をもって、人や自然に災いを為す存在、といったところでしょうか。
実際は、キリスト教を信じず、古くからのシャーマニズムを信じていた人々が存在し、土俗的な儀式をおこなったりして、それがキリスト教徒には悪魔崇拝に見えたのかもしれませんね。
中世ヨーロッパで行われた魔女狩り・魔女裁判は、それは凄惨を極めたと伝え聞きます。
宗教に寛容な国に生まれて本当に良かったと思います。
汝の敵を愛せ、とキリストは説いたと伝えられます。
これは普通に考えれば到底受け入れがたいことです。
受け入れがたいことを受け入れるから立派な行為だとされるのでしょうね。
ただし、ただ単純に敵を愛するというよりも、敵を愛するという行為が、神様を愛するという行いにつながり、もって、人は神を愛し、愛される、という理屈のようです。
それによって、天国の門が開かれる、という利益が得られるというわけで、神の愛は無償かもしれませんが、人の愛はどこまでいっても対価を求めるもののようです。
死ねばみな 黄泉に行くとは 知らずして ほとけの国を ねがふおろかさ
本居宣長の和歌です。
この人、日本神話に書かれていることを頭から正しいと信じ、仏教を批判しました。
神話では、黄泉の国は穢れた場所だとされていますから、誰だってそんなところに行くよりも、極楽往生を遂げたいと思うのが人情でしょうに。
この人、仏教や儒教などに侵されたわが国の思想体系を深く憂い、大和心をこそ良しとして、その本質に迫ろうと、「古事記伝」などの大作や、「源氏物語玉の小櫛―物のあわれ論」を著しました。
![]() |
古事記伝 1 (岩波文庫 黄 219-6) |
倉野 憲司,本居 宣長 | |
岩波書店 |
![]() |
源氏物語玉の小櫛―物のあわれ論 (現代語訳本居宣長選集) |
山口 志義夫 | |
多摩通信社 |
その中で、死があるからこそ宗教が生まれると考え、神道はいわゆる宗教ではなく、一種の倫理規範であり、それに依って生きることを称揚せしめようと考えたものと推量します。
その当然の帰結として、一種の無宗教に陥り、死後の世界を認めないという態度を、死後は黄泉に行くだけだ、と逆説的な言い方をしたのではないかと思います。
私もまた、大和心というものに深く心惹かれる日本人でありますが、しかし、外つ国々(とつくにぐに)の長きに学び、わが短きを補うこともまた、重要だと思うのです。
そうでなければ、独善に陥ってしまうように思います。