今日は暑いなか、同居人の父親と妹が眠る墓にお参りしました。
墓は千葉市郊外の巨大な霊園にあります。
千葉市で最も田舎臭いところです。
迎えは明日ですが、多くの人々がお参りに来ていました。
なんだか同居人の家族の墓参りばかりして、実家の墓には全然出かけていません。
実家は多くの家族親族がおり、私がお参りしなくてもどうということはありません。
しかし同居人には、血のつながった家族と言えば、衰えて施設で暮らす母親しかいません。
当然、車椅子の母親が墓参りに行くことはできません。
同居人と私だけが、墓参りに行くのです。
今年は18歳で亡くなった同居人の妹の33回忌。
この法要も、同居人と私の二人だけで執り行う予定です。
この世に生をうけた者は必ず亡くなります。
そのことを実感させられるのが、身近な者の死です。
私が家族の死に直面したのは、祖母と実父、それに義父の3人だけです。
3人の遺体を見て思ったのは、死というもの、本当にその存在が消されてしまうということ。
さっきまで息をしていたのが、抜け殻になってしまうということ。
いずれもショックでしたが、実父の死は喪失感があまりにも大きく、物が食べられなくなって、1年で24キロも瘦せてしまいました。
私も同居人も、必ず死を迎えます。
私たちは子宝に恵まれなかったため、私たちを弔う子孫はいません。
それは寂しいことではありますが、死んでしまえば何もわからないでしょうから、それはそれで構いません。
生まれて、生きて、死ぬ。
その命の営みは、あまりにも儚く、墓参りに行くと、生物は必ず死ぬのだということを実感させられて、軽いパニック状態に陥ります。
私は死ぬことが怖ろしくて仕方ありません。
いや、怖ろしいというより、自分の死を想像することができず、永遠に生きるような気がして、しかしそれは偽りでしかなく、しばし、同時代を生きるすべての生物の営みが、限りなく貴重なものであることを痛感させられるのです。
墓参りや葬式というのは、生物の営みの貴さを実感させるためにあるのかもしれません。
供養と言ったところで、亡くなった者はもはや存在しないのですから、それは生きている者の自己満足に過ぎません。
今年53歳になりますから、私の寿命はあと30年ほどでしょうか。
はるか未来のことのようにも、すぐに訪れるようにも思えます。
霊魂の不滅を信じる人も多く存在します。
それらの人々の思想信条を貶める気はありませんが、仮に霊的存在があるにしても、霊にすら寿命があるように感じます。
幽霊と言っても、せいぜい落ち武者くらいしかその目撃記録は存在せず、例えば縄文人の幽霊を見たという証言は、寡聞にして知りません。
さらには人間が人間である前の存在であった時代の魂はどうなっているのでしょう。
もっと言えば宇宙が生まれる前、そして宇宙が消滅した後の霊的存在はどうなっているのでしょう。
魂の不滅を信じることは、精神衛生上有意義なことなのかもしれませんが、死に対する思考を停止させる副作用があると思います。
私は霊的存在が現実であることを心深くに願いながらも、多分それは嘘なのだと思わざるを得ません。
墓参りに行くといつも死をめぐる思考がぐるぐる回って、とても辛く感じます。
どうかすべての生物の死が、安らかであらんことを。
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