「宇宙の理」という雑誌に、私が管理している「おもいで」のホームページとは別に、志摩川さんの前生のおもいでに付いて、10月号から連載を始めています。
「おもいで」の志摩川さんの文書はそのままですが、私の所感は書きおろしていて別の文書になっていますので、本が出版された後、暫くしてから紹介していくつもりです。
今日はその第二回目、10月に発行された11月号を更にリライトしたものです。
長文ではじかれ一度にUP出来ず、3つに別けました。
昼下がりのコーヒーブレイク 11月号
おもいで(その1-2)
先月は志摩川さんが日本に軍人として生まれた前生 ( ぜんしょう) の記憶を紹介しましたが、今月はその前生の死後霊界の記憶で、前回の続きになります。
前の人生で生まれてから死ぬまでの間に為したことを全部思い起こすシーンは死後霊界へ行く時の恒例儀式のようで、これは誰もが通らなければならない通過点として経験するようです。
霊界から地上に生まれる時は地上と霊界の幾多の過去の記憶一切合切を忘れて生まれるのに、霊界に戻った時は前生の記憶を全部思いだして確認しなければなりません。
これは地上の人生が仕切り直しの修行の場であり、死後の人生は反省の場である意味合いが強いことの標 (しるし)と言えるでしょう。
『そこで私の人生の最初から最後までの思い・考え・言動・行動などが一瞬のうちにまるで今自分が実際に体験しているかのように、正確に完璧にもう一度繰り返された。複雑な思いをしながらも感心していると、まるで罪人 (つみひと) を扱うような高飛車(たかびしゃ)な態度で私の人生についてけなし始めた』
私たちは普段、地上では自分の中から自分とその環境を見ていますので、昔のことも、つい先程の口論したことも自分本位で反省することなくやり過ごしてしまうことが多いものです。
しかし霊界で顧(かえり)みる自分の人生とは、自分の肉体から見るのとはまたちょっと違った視点で、映画でも観るようにして理性的に観ることができるのだと思います。
このことが私たちに教えてくれる氣づきはとても重要です。
私たちがこの世で自分を観る場合も、この場合と同じように自分の マインド を放れて理性の目で観たいものです。
私はこのシーンについて、生前の生存中に自分の親しかった人たちと共に見るものと思っていましたが、志摩川さんの「おもいで」を見ているといつも一人の場合が多いので、彼に直接確かめましたが、志摩川さんによると彼の場合は常にひとりで見ていたようです。この儀式の経験の仕方は、人によって多少異なるようですが、人の場合だけではなくて国によっても違いがあるようです。
私たちの意識、想念、集合意識というものが霊界の現実の実現にも影響を与えているようなのです。
死後の世界の研究をしている京都大学院のカール・ベッカー教授によると、死後に自分の生前の人生を振り返る場合に、早送りの映画のように見せられる場合や、大事なところだけをスライドのように静止画で見せられることもあるようです。
また関連したことで、日本で「三途の川」と言われるものはアラビアでは燃える砂漠で、ポリネシアでは荒れる海で、スコットランドでは断崖絶壁だそうです。何事も決めつけてはいけないようです。考えてみればこのうな幻想というものは私たちの意識が作り出しているのですから決めつけてはいけないものなのです。
『私は頭にきて、「どんな人間だってみな彼等なりに頑張って生きているんだ。私も大勢に迷惑をかけてしまったが自分なりに一生懸命やってきたつもりだ。それなのにその態度はなんだ。」と怒鳴(どな)りながら睨(にらみ)つけた。すると私を案内してきた者は、気が抜けたようになり、何も言えず動けなくなってしまった』
自分のことを高飛車にけなされたとの思いから志摩川さんは腹を立てて怒鳴りましたが「怒鳴って睨みつける自分がいた」という現実が先にあったから、「罪人 を扱うような高飛車な態度で私の人生についてけなし始めた」という現実が後から起きたのです。霊界だけではなくて、これは今、私たちが生きていて毎日毎日起こしていただいて見せられていることと同じです。
怒りも悲しみも私たちの心の現実として自分が作り出しているものなのです。
すべてをお任せできる心 2 へ 続く