東日本大震災から12年が経った。当ブログは震災の前年11月からスタートしており、ほぼ同じく時を経過してきた。その間ずうっと山歩きを続けてきて、自然と向き合っていると少し信心深くなったように感じる。信心深くなったといっても新興宗教や葬式仏教を肯定しているわけではなく、多くの宗教に共通するある種の運命論を受け入れられるようになってきたということだ。
山を歩いていると自然は人が征服するものではなく、利用させてもらっているだけだということに気づく。そして自然が人に襲い掛かったきたときに、人には耐えるか逃げるかしか方法が無いことにも気づく。だからボクは自分の身に何か不都合なことが起きたときに耐えるか逃げるかしか方法が無いと受け入れられるようになった。もちろん理不尽なことには戦うのも良い。でもこの世には自己の責任でもなければ他者の責任でもないことはいくらでもある。だからボクはそれを運命として受け入れよう。宗教というのは超自然的な力でボクらを救うことに本旨はないと思う。そうではなくボクらに現状を受け入れる力をくれるものである、あるいはそうあるべきだと思うのだ。
山を歩いていると自然は人が征服するものではなく、利用させてもらっているだけだということに気づく。そして自然が人に襲い掛かったきたときに、人には耐えるか逃げるかしか方法が無いことにも気づく。だからボクは自分の身に何か不都合なことが起きたときに耐えるか逃げるかしか方法が無いと受け入れられるようになった。もちろん理不尽なことには戦うのも良い。でもこの世には自己の責任でもなければ他者の責任でもないことはいくらでもある。だからボクはそれを運命として受け入れよう。宗教というのは超自然的な力でボクらを救うことに本旨はないと思う。そうではなくボクらに現状を受け入れる力をくれるものである、あるいはそうあるべきだと思うのだ。