今年も富士山で残念な事故が起きてしまった。「今年も」としたのは毎年ほどではないものの、落石による死亡事故は数年に一度の割合で起きているという現実があるからだ。ボクは富士登山に関しては"tozan.net"の「富士登山をしてみたい」の記事を隅々まで読むべきだと思っているのだが、その中に「事故を防ぐために」という記事がある。著者のwakkyさんによると落石事故は富士山での死亡原因の第二位に挙げられるという。
富士山で落石が多い理由は、富士山が直近の噴火から時間が経った火山であることと例年6月頃まで雪が積もっている山であることが挙げられる。岩石が風化により脆くなっている上、冬場は凍り付き、夏場は灼熱の太陽光を浴びるという温度変化の大きさによって大きな岩が毎年崩れやすくなっているという状況なのだ。マスの大きな山なので、岩が崩れやすいということを登山中意識しづらいのだが、表面上は平気そうに見えても内部で崩壊が進んでいることはよくある。落石事故のリスクはどこの山でも生じうること(例えばボクがよく歩く棒ノ嶺の白谷沢では落石が度々起きて死亡事故も起きている)ではあるが、富士山の場合、特にリスクが大きいという認識は必要だろう。
「事故を防ぐために」という記事の中でwakkyさんは休憩の仕方に問題があることを指摘している。ボク自身、三度富士山に登って気になったのは登山者のほとんどが休憩中に落石のリスクを考慮に入れていないことだった。ボクが登ったのはいずれも7月中でまだ比較的空いている時期だったのだが、今回事故を起こした8月下旬は毎年山頂まで御来光待ちの長い行列ができることが知られている。今回の事故では人為的な原因も指摘されているが、それならばむしろ対策の余地はあるともいえる。しかし自然的な原因で引き起こされた事故であるならば、現在のような夜間での長い御来光待ちの行列は非常に危険な状態なのではないだろうか。
ボクは山頂で御来光を拝めたのは一度だけだ。でも三度の富士登山で御来光は全て見ている。御来光を拝むだけなら吉田口であれば8合目以上で可能なので、無理して山頂を目指す必要はないというのがボクの考えだ。小屋で御来光を拝むのなら落石のリスクは最大限に避けられるし、明るくなってから山頂を目指せば避けられるかどうかは別として落石を目視することも可能だ。山は自己責任。登った以上は自分の足で下山するのが原則だ。ボクは事故に遭われた方を悪く言うつもりはない。だが富士山を夜間登るということは落石のリスクが大きいということも意味する。たとえ落石事故に遭ったとしても、それは夜間歩くというリスクを取った自己責任というほかないのではないだろうか。
富士山で落石が多い理由は、富士山が直近の噴火から時間が経った火山であることと例年6月頃まで雪が積もっている山であることが挙げられる。岩石が風化により脆くなっている上、冬場は凍り付き、夏場は灼熱の太陽光を浴びるという温度変化の大きさによって大きな岩が毎年崩れやすくなっているという状況なのだ。マスの大きな山なので、岩が崩れやすいということを登山中意識しづらいのだが、表面上は平気そうに見えても内部で崩壊が進んでいることはよくある。落石事故のリスクはどこの山でも生じうること(例えばボクがよく歩く棒ノ嶺の白谷沢では落石が度々起きて死亡事故も起きている)ではあるが、富士山の場合、特にリスクが大きいという認識は必要だろう。
「事故を防ぐために」という記事の中でwakkyさんは休憩の仕方に問題があることを指摘している。ボク自身、三度富士山に登って気になったのは登山者のほとんどが休憩中に落石のリスクを考慮に入れていないことだった。ボクが登ったのはいずれも7月中でまだ比較的空いている時期だったのだが、今回事故を起こした8月下旬は毎年山頂まで御来光待ちの長い行列ができることが知られている。今回の事故では人為的な原因も指摘されているが、それならばむしろ対策の余地はあるともいえる。しかし自然的な原因で引き起こされた事故であるならば、現在のような夜間での長い御来光待ちの行列は非常に危険な状態なのではないだろうか。
ボクは山頂で御来光を拝めたのは一度だけだ。でも三度の富士登山で御来光は全て見ている。御来光を拝むだけなら吉田口であれば8合目以上で可能なので、無理して山頂を目指す必要はないというのがボクの考えだ。小屋で御来光を拝むのなら落石のリスクは最大限に避けられるし、明るくなってから山頂を目指せば避けられるかどうかは別として落石を目視することも可能だ。山は自己責任。登った以上は自分の足で下山するのが原則だ。ボクは事故に遭われた方を悪く言うつもりはない。だが富士山を夜間登るということは落石のリスクが大きいということも意味する。たとえ落石事故に遭ったとしても、それは夜間歩くというリスクを取った自己責任というほかないのではないだろうか。