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タローさんの、トコトコ♪エッセイ

アーティスト・きしもとタローの、旅の話や、夢日記、想い出話など…

その1『はじめに』

2006-05-16 02:09:34 | 海の向こうへ行く前に…
『はじめに』

なにごとも、本当の「はじまり」はいつなのか…私たちが生きている間には、明らかにされないものなのかもしれません。私はいつも、何かに縁を感じる時、そう考えてみることにしています。自分と音楽との縁、自分と誰かとの縁、自分とどこかの国や土地との縁…なんでもそうです。この世で「何の力がはたらいて、ものごとがそうなってゆくのか」「そして、これからどうなってゆくのか」ということは、我々には「はかり知れない」ことであり、また、全貌は知らぬままでも良いことなのかもしれません。縁というものは、人間の認識の尺度を越えたものですし、「いつから」や「いつまで」は本来ないからこそ、「えん」なのではないでしょうか。

私は12歳の時に自分で竹笛を作って以来、世界の様々な地域の音楽に魅せられ、自分なりにそれらの音楽を勉強してきました。現在は、自分で作曲した作品や自分が学んだ音楽をとりあげて演奏する活動を各地で続けています。その傍ら、教室などで、自分自身が学んだ音楽を紹介する機会も多いのですが、一般の方々にとってはどちらかというと珍しい音楽を演奏していると、時折尋ねられる事があります。「そもそも、はじまりは何だったんですか?」「何がきっかけではじめられたのですか?」もちろん、ご質問の意味はわかっていますので、その都度、尋ねて来られた方に、自分自身の体験・自分に起こった出来事などを話し、楽器や音楽を始めた具体的なきっかけを説明するのですが…実は私は説明しながら、心の中では自分に対して質問をぶつけているのです。「本当のところは、何がどうなって、自分はこうなったんだろう?」「自分に起こってきたことは一体何だったんだろう?」「そして全ては…もともとは、どんなふうになっていたんだろう?」


『縁』

人や出来事に対して私たちが縁を感じる時というのは、自分の目の前で「何かと何かがつながったように見えた時」ですね。たとえば、出会った人や、体験した出来事が、自分の中の「何か」の事象と結びついたりした時、私たちは相手や出来事に対して縁を感じます。そして大抵の場合、その「縁を感じた時」が「その縁が始まった時」のように私たちは思っています。しかし、時間が経ってから、本当はそうではなかった…と気付かされた事が皆さんにもありませんか?「その縁は、ここからはじまった」と思っていた地点が、実は「自分がその縁に気づいた」地点であっただけで、本当はもっともっと前に、自分で気づいていなかった「その瞬間を導く沢山の出来事」があったのだ、というような…。それは、まるで「そうなる事を知っているものが、そうなるように準備し導いてきた」が如くです。

私たちは、人と人や、出来事と出来事、バラバラで起こっている事象などが「つながっていくさま」をこの世で目撃しているように感じ、そんな時「縁」を感じ、また「縁」という言葉を使っているのですが、実は「もともとつながっていた人やものごと」が、そのありのままの姿を取り戻し、また、そのありのままの姿を認識されていく過程を、我々は体験しているのではないでしょうか。

つまり、「次第につながっていくように見えていること」は「本来つながっていたこと」なのであり、縁とは「人や物事が出会ったり分かれたりすること」ではなく、「もともと、あらゆる事象がひとつにつながっているのだ、ということを我々に思い出させるように作用していくこと」なのではないでしょうか。私は、いつもそう思うのです。


『旅』

「音楽」や「笛」を、一つの大きなきっかけとして、私はこれまで様々なものごとに引っ張られてきました。引っ張られてきた…という表現が、とてもピッタリな気がします。一つ一つのものごとに不思議な縁を感じながら、いつか種明かしがされる日が来るんだろうなぁ、と思いながら、音楽を続けてきました。

「一体何が自分を引っ張っているのだろう」「一体自分はどこに導かれているのだろう」考えてみれば、日常の体験は全て、いつか種明かしされるであろう「クイズ」の、第一ヒント・第二ヒント… といったようなものなのかも知れません。そんなふうにして、人生のひとつひとつの出来事を「ナゾナゾ気分」で体験して楽しめたらいいですね。

私は日頃、「ここではないどこかへの旅」というものを特別したい、と思っているわけではないのです。
この世に生まれてきたことも旅といえば旅ですし、「今ここに来ていること」も前々から計画していた旅かも知れないからです。自分の住んでる街や通りを、そんな風に考えて、時折「旅気分」で歩いています。外国人のような目で、宇宙人のような目で、初めてここにやって来た人のような目で、目に入る風景や建物、通りや人々を見ると、それらは新鮮な驚きをもたらしてくれますし、日頃いかに自分が、今いる場所を見つめていないかがわかります。本当は、どこにいても世界は驚きをもたらしてくれるものなんでしょう…そうはいっても、やっぱり遠いところや言葉が違うところに行くと、そのような体験は、更に大きなものになりますね。もちろん、お金がかかることが難点ですが!

その2『子供の頃』

2006-05-16 02:09:04 | 海の向こうへ行く前に…
『子供の頃』

小さな頃から音楽家を志していた訳でもなく、絵描きになりたいだの、仏師になって仏像を彫ってみたいだの、医者になりたいだの…大人達に「将来何になりたいか」と尋ねられたら、その度に違うことを言っていた私は、ちょうど小学校の五年生位から何故か音楽に興味が湧いてきて、家にあるレコードを、かたっぱしからかけて聴くようになっていました。

その中でも特にお気に入りだったのが、アンデス山岳地域の縦笛ケナ(ケーナ)のアルバムでした。それはウニャ・ラモスというケーナ演奏家の二枚組レコードで、フォーク好きだった父が、加藤登紀子さんの歌っていた「灰色の瞳」という歌の元の曲を探して買って来たものでした。買って来た父はそのレコードをそんなに聴いていなかったように思うのですが、それまで笛というものに全く興味がなかった私が、何故かそのレコードを毎日聴くようになっていました。

どんな笛なのか、それを吹いている人々はどんな人々なのか…当時はこの笛について知っている大人がまわりに全くいなかったので、自分で何とか調べるしかありませんでした。そしてもちろんの事ながら、関西の普通の楽器屋に売っているような笛ではなかったので、しびれを切らした私は「これはもう自分で作るしかない」と、裏の竹やぶで竹を切り、レコードのジャケットにある写真を見ながら、自作の笛を作ったのです。

これは、幼いころから何か欲しがる素振りを見せようものなら、先回りして「自分で作りなさい」と言い放つ母親のせいでもありました。しかし、この「とりあえず自分で作ってみる」というスタートこそが、その後の私の「物事のやり方」を決定したのかもしれません。そうして、何かよくわからない謎の竹笛を何本か作って吹いていた私が13歳の誕生日を迎えた折、単身赴任をしていた父が東京の楽器屋でケナ(ケーナ)を見つけて買って来てくれたので、私はさっそくそれをもとに、改めて自分でこの笛を作り、レコードから聴き覚えた曲を吹くようになりました。そして次々に笛を作りたい欲求にかられた私は、あるお寺の山に丁度いい竹林を発見し、度々侵入して竹を間引き致しました…ごめんなさい!(時効??)


『キョロキョロする日々』

そんな訳でこの南米の縦笛にドップリとはまってしまった私は、次第に、大人になったら南米に行ってみたい…と思うようになりました。しかし、当然のことながらこの頃は本当に子供でしたし、すぐに自分の力でどうこう出来る訳でもありません。

ですから、毎日のように南米に関する本を開き、テレビや新聞の記事に目を通しては、その音楽をとりまく人々の暮らしや文化・歴史を知ろうとしました。そうするうちに音楽以外のこと…例えば服の模様やデザイン、その背景にある宗教性などにも興味がつのり、気に入ったデザインをノートに書き写したり、アレンジした模様を自分で作ってみたり…いつの間にか学校の授業時間は、そういうひそやかな時間に変わっていきました。

そんな子供でしたから、何事につけても好奇心が動き始めると止まらなくなり、そんなエネルギーを自分でもてあますようになっていました。興味があるものに自分の射程が定まると、家族で動いていても自分だけ走っていってしまうし、その頃はそういう暴走で随分怒られたものです。特にあるジャンルについて「不思議」と思う事には、どこかとりつかれしまうところもありました。

たとえば、二匹の龍が両方から玉をくわえた意匠の刀のツカが日本の遺跡から発掘されたニュースが新聞に載った事があったのですが、同じ意匠のものがアンデス山岳地域の遺跡にもあるんですね。これが不思議で不思議で…気になって寝られない。皆が大騒ぎしないのも不思議で…とにかく、自分の知らない不思議な事実が、裏にあるのではないか、と思うと興奮して寝れないわけです。いてもたってもいられずに、新聞社に質問状を書いたのですが(子供ですから「新聞社の大人は何でも知ってる」…みたいな思い込みがあった)、今思ってもアツい手紙だったように思うので、それを受け取った方も対応に困ったことでしょう。「あなたが大人になってから調べてみてください」とかいう返事が返ってきました。

そんなある日(中学2年生の時)、ペルーの演奏家が来日してコンサートをするという記事を新聞で見つけました。すぐに主催者に連絡して、そのグループの笛の人に個人的に色々教えてもらえないか、と問い合わせてみたところ、主催者の方のご好意で、コンサートの前と後ろに一時間づつ楽屋で教えてもらうことが出来ました。この時、音楽の文化というものが、自分のイメージを越えているということを強く感じたのです。学校の音楽の授業やブラスバンドで接している世界とは、全く違う世界がそこにはありました(きしもとタローの「ウキウキ隠れ部屋」参照)。

高校生になると、友人達をそそのかして急造の楽団を結成し、文化祭でアンデスの山岳地域の音楽を演奏しました。何故か「アンデスとシルクロード」という題名で…。この頃は、脚本を書いて映画を撮ったり、中国武術に傾倒して身体性について考えてみたり…とにかく色んなことにバラバラに興味が出て忙しかった!まさに「キョロキョロする日々」だったのです。そんな落ち着きのない少年だった私は、高校を卒業したら映画についてもっと勉強して、いつかは自分で映画を撮ってみたい、と思うようになっていました。ところがある時、とあるストーリー(というよりも、脳裏を走った映像と言った方がいいかもしれません)が頭に浮かび、その内容があまりに壮大だった為(架空の少数民族が多数出てきたり、シャーマンや坊さんなどが出てきたりで、かなりぶっ飛んで内容でした)、今の自分には描ききるのは無理だ、と思ったのです。自分はまだそんなに人間の文化や歴史について知らないし、人間にまつわる事をもっと勉強しないと、とてもじゃないがこの話を形にできない…。高校生の頃は大学に進むことに対してそんなに必然性を感じていなくて、むしろ進学が当然の事のように話を進めている学校にも冷めていたし、ずっと小学校・中学校・高校と何かに所属して、この後も大学なり予備校なり就職なり…常に何かに所属する自分に少々うんざりしていた私は、在学中は、社会のどこにも所属のない「宙ぶらりん」な自分になってみたい、と思っていました。

そして高校を卒業してからはアルバイトしながら映画を撮ったり映画用のストーリーを作ったりしていたのですが、突如「人間についてもっと知りたい」と言う欲求が大きくなり…受験の時期が近づいた秋の頃大急ぎで準備して、ラッキーなことに大学に入ったのです。自分で思いついたストーリーなのに、それを描ききる程、人間について何もわかっていなかった私は、その頃は「もっと人間について知りたい」…ただ、そう思ってただけでした。音楽の仕事をしていくなんて、その頃は全く思っていなかったのです。

その3『そしてトコトコ…』

2006-05-16 02:08:29 | 海の向こうへ行く前に…
『いつの間にやら』

不思議なもので、小学校の卒業式では、それまでそんな事言ってなかったクセに「いつか音楽家になって曲を沢山作る」と自分で言ってたんですよね…なんでまたそんな事言ったのか??しかも、自分でそう言った後もそれらしきレールもひかず、そういうレールに乗ろうともしませんでした。これまた、なんでなんでしょう??
思うに、私は「~になりたい」と言いながら、「~になる為の過程」には一切興味がなかったのです。こうなりたい、こんなことしたい、と言いながら、大人に意見を求めず、自分で何の準備もしようとしていなかった。もしもその頃、誰か大人に意見を求めていたら、クラシック楽器を習いに行く事や、音楽学校・音楽大学に行く方法を教えられていた事でしょう。でも、そういう事には全く興味がなくて、ただ「音楽家になって曲を沢山作る」とだけ言っていた。

中学生になると、「子供の頃からあれになりたい・これになりたい、と言いながら、自分は本当のところ何になろうしているのだろう?」と改めて考えるようになりました。そして高校生になると、大人から「何になりたい?将来についてどう考えている?目標は何?」と聞かれる度、目の前に並べられた選択肢の中から選んで答えようとする自分と、そう答えようとさせる周りに疑問が涌くようになりました。そして聞いてきた大人は、その答えを聞いて、自分の経験や認識している範囲内でのストーリーを語り、批評を加えるので、尚更漠然とした違和感を感じるようになったのですね。

そして高校2年くらいになると先生方はいきなり三段飛ばし位で「どこを受験する?」と聞いてくるもんだから、私の中でそれまで形になっていなかった疑問は一気に涌き上がるようになりました。それはまるで「卒業したら次の居場所はどこにする?」的な聞き方に聞こえたのです。で、思わず「さぁ…」と斜に構えていたら、今度は「じゃ、就職するのか?どこ?」と迫ってくるし…先生方は、自分達が認識している範囲に過ぎない社会を「現実の世界」の全容のように話すし、その中にある幾つかの枠を「これらが君達の次の居場所候補である」というように選択肢として並べ、まるで私達がそこから選ぶ事が当たり前のように、まるで私達「経験値の少ない人間」をそのどこかに放り込む事が自分達の使命であるかのように、話を進めているように私には見えたのです。もちろん、先生方にはそうする事が求められている節もあるかもしれません…が、まるで周りの大人と呼ばれる人々が、自分達の経験のファイルにあるどれかのタイプに目の前の私達がなることを、最初から決め込んでるかのように思え、私は反射的に拒否感を覚えていたのです。

そうして頭の中で多くの疑問符が飛び交う中で、改めてじっくりと「そもそも、自分ってどんなことを求めていたっけ?」と自分の心を省みたら、「社会や大人から期待される姿を装って生きていけば、受け入れられる=幸せになれる」という思い込み、「そうならないと受け入れられない=幸せではない」という思い込みが、自分の心の中にずっとあったんだと気付き、そんな自分の心に自分自身が得体の知れない違和感を感じ始めたのです。


『全てに無駄がない!』

そんな状態の中で悶々としていたある日、ひょんなことから「自分が求めているのは、<何かになること>ではなく、<どうなりたいか>ということだけだった」と気付くようになりました。自分の欲求は全て、根っこをたどれば「大きくなりたい=成長したい」という言葉に置き換えられますし、「何をしたいか、どこへ行きたいか、何を探したいか…」という気持は「大きくなりたい=成長したい」という欲求から枝分かれしたものだから、これをきちんと認識できれば、どんな経験をしてもそれを基に成長出来るはずです。

この「成長したい」という自分の心の根っこに気付いてからは、<何をやるか>は大きな問題じゃなく、何をやるにしても<どのようにやるか><どのような状態でやるか>に自分の幸せの本質がある、と考えるようになりました。

そして「自分がこれからする全てのことには無駄は無い」「たとえ音楽以外のことにドンドンのめり込んでも、全ては自分の行き着くところにつながっている筈だから、究極的には自分の選ぶことに間違いはありえない」と思うようになりました。気が大きくなったもんですね~。高校を卒業し、念願の「宙ぶらりん生活」を楽しんだ後、人間についてもっと勉強したい、と言う気持ちが湧き上がってきたので大学に進み、卒業してからはとにかく色んな事をやって色んな人間や暮らしを見聞きしようと、キャディー・大道具屋・測量士・発掘…などなど、様々なアルバイトをしてみました。そんな中で、学生時代に結成したグループでコンサートをしたり、プロの楽団の手伝いで舞台に立ったりして…いつの間にか、音楽ばっかりするようになってたんですね… 何でだろう??これまたよくはわかりません。そしていつしか「もっとこの<音楽>というものを、とことんまでやってみたい!」と思うようになり、今に至るわけです。


『そしてトコトコ…』

そんなこんなで音楽をやっていたのですが、今度は演奏している音楽に関して様々な疑問が湧くようになってきました。「本当にこれは、いわゆる民族音楽・民俗音楽なんだろうか」「自分たちは言わば他人の音楽や他国の文化を紹介してお金を得ることがあるが、そこに誠意はあるのだろうか?」「それは文化の切り売りになっていないのか?」「その音楽は本当に彼ら彼女らのものなのか?」「経済先進国とやらの仮想旅行気分を満足させるような内容になっていないのか?」「自分たちから遠い土地のことをネタに自己を顕示しているのではないのか?」「自分は志の高いことを本当にしているのかな??」などなど…とにかく何かがしっくり行かない、何かが明らかでない、そんな風に考える日々が続くようになりました。そしてその漠然とした不明瞭さが、自分の中で放っておけない大問題になってきたのです。

その「違和感」のようなものを確かめたいという想い、子供の頃から心惹かれていた土地・文化・歴史に触れてみたいという想い、どんな人々がいてどんなふうに生きてるんだろうという好奇心…。

それらがあふれて来た時、私は南米行きを決意しました。24歳の秋、既に始めていた演奏活動を一時休止し、南米ペルーとボリビアに旅立ちました。南米の音楽に興味を持ち自分なりに探求を始めてから12年が経っていました。突如決行の、着の身着のまま貧乏旅行は、思い出しても楽しい出来事の連続でした。その土地で暮らす人々に突然カメラを向けるということも出来ず…(ちゃんとしたカメラをもっていなかったということもありますが)あまり写真は撮れませんでした。が、とても気楽な一人旅でした!そんな楽しい南米旅行を最初の一歩として、私は以後、様々な土地を訪れるようになりました。

「トコトコ旅話」は、そんな縁あって訪れた様々な土地や人々との、出会いとふれ合いの想い出話です。