『はじめに』
なにごとも、本当の「はじまり」はいつなのか…私たちが生きている間には、明らかにされないものなのかもしれません。私はいつも、何かに縁を感じる時、そう考えてみることにしています。自分と音楽との縁、自分と誰かとの縁、自分とどこかの国や土地との縁…なんでもそうです。この世で「何の力がはたらいて、ものごとがそうなってゆくのか」「そして、これからどうなってゆくのか」ということは、我々には「はかり知れない」ことであり、また、全貌は知らぬままでも良いことなのかもしれません。縁というものは、人間の認識の尺度を越えたものですし、「いつから」や「いつまで」は本来ないからこそ、「えん」なのではないでしょうか。
私は12歳の時に自分で竹笛を作って以来、世界の様々な地域の音楽に魅せられ、自分なりにそれらの音楽を勉強してきました。現在は、自分で作曲した作品や自分が学んだ音楽をとりあげて演奏する活動を各地で続けています。その傍ら、教室などで、自分自身が学んだ音楽を紹介する機会も多いのですが、一般の方々にとってはどちらかというと珍しい音楽を演奏していると、時折尋ねられる事があります。「そもそも、はじまりは何だったんですか?」「何がきっかけではじめられたのですか?」もちろん、ご質問の意味はわかっていますので、その都度、尋ねて来られた方に、自分自身の体験・自分に起こった出来事などを話し、楽器や音楽を始めた具体的なきっかけを説明するのですが…実は私は説明しながら、心の中では自分に対して質問をぶつけているのです。「本当のところは、何がどうなって、自分はこうなったんだろう?」「自分に起こってきたことは一体何だったんだろう?」「そして全ては…もともとは、どんなふうになっていたんだろう?」
『縁』
人や出来事に対して私たちが縁を感じる時というのは、自分の目の前で「何かと何かがつながったように見えた時」ですね。たとえば、出会った人や、体験した出来事が、自分の中の「何か」の事象と結びついたりした時、私たちは相手や出来事に対して縁を感じます。そして大抵の場合、その「縁を感じた時」が「その縁が始まった時」のように私たちは思っています。しかし、時間が経ってから、本当はそうではなかった…と気付かされた事が皆さんにもありませんか?「その縁は、ここからはじまった」と思っていた地点が、実は「自分がその縁に気づいた」地点であっただけで、本当はもっともっと前に、自分で気づいていなかった「その瞬間を導く沢山の出来事」があったのだ、というような…。それは、まるで「そうなる事を知っているものが、そうなるように準備し導いてきた」が如くです。
私たちは、人と人や、出来事と出来事、バラバラで起こっている事象などが「つながっていくさま」をこの世で目撃しているように感じ、そんな時「縁」を感じ、また「縁」という言葉を使っているのですが、実は「もともとつながっていた人やものごと」が、そのありのままの姿を取り戻し、また、そのありのままの姿を認識されていく過程を、我々は体験しているのではないでしょうか。
つまり、「次第につながっていくように見えていること」は「本来つながっていたこと」なのであり、縁とは「人や物事が出会ったり分かれたりすること」ではなく、「もともと、あらゆる事象がひとつにつながっているのだ、ということを我々に思い出させるように作用していくこと」なのではないでしょうか。私は、いつもそう思うのです。
『旅』
「音楽」や「笛」を、一つの大きなきっかけとして、私はこれまで様々なものごとに引っ張られてきました。引っ張られてきた…という表現が、とてもピッタリな気がします。一つ一つのものごとに不思議な縁を感じながら、いつか種明かしがされる日が来るんだろうなぁ、と思いながら、音楽を続けてきました。
「一体何が自分を引っ張っているのだろう」「一体自分はどこに導かれているのだろう」考えてみれば、日常の体験は全て、いつか種明かしされるであろう「クイズ」の、第一ヒント・第二ヒント… といったようなものなのかも知れません。そんなふうにして、人生のひとつひとつの出来事を「ナゾナゾ気分」で体験して楽しめたらいいですね。
私は日頃、「ここではないどこかへの旅」というものを特別したい、と思っているわけではないのです。
この世に生まれてきたことも旅といえば旅ですし、「今ここに来ていること」も前々から計画していた旅かも知れないからです。自分の住んでる街や通りを、そんな風に考えて、時折「旅気分」で歩いています。外国人のような目で、宇宙人のような目で、初めてここにやって来た人のような目で、目に入る風景や建物、通りや人々を見ると、それらは新鮮な驚きをもたらしてくれますし、日頃いかに自分が、今いる場所を見つめていないかがわかります。本当は、どこにいても世界は驚きをもたらしてくれるものなんでしょう…そうはいっても、やっぱり遠いところや言葉が違うところに行くと、そのような体験は、更に大きなものになりますね。もちろん、お金がかかることが難点ですが!
なにごとも、本当の「はじまり」はいつなのか…私たちが生きている間には、明らかにされないものなのかもしれません。私はいつも、何かに縁を感じる時、そう考えてみることにしています。自分と音楽との縁、自分と誰かとの縁、自分とどこかの国や土地との縁…なんでもそうです。この世で「何の力がはたらいて、ものごとがそうなってゆくのか」「そして、これからどうなってゆくのか」ということは、我々には「はかり知れない」ことであり、また、全貌は知らぬままでも良いことなのかもしれません。縁というものは、人間の認識の尺度を越えたものですし、「いつから」や「いつまで」は本来ないからこそ、「えん」なのではないでしょうか。
私は12歳の時に自分で竹笛を作って以来、世界の様々な地域の音楽に魅せられ、自分なりにそれらの音楽を勉強してきました。現在は、自分で作曲した作品や自分が学んだ音楽をとりあげて演奏する活動を各地で続けています。その傍ら、教室などで、自分自身が学んだ音楽を紹介する機会も多いのですが、一般の方々にとってはどちらかというと珍しい音楽を演奏していると、時折尋ねられる事があります。「そもそも、はじまりは何だったんですか?」「何がきっかけではじめられたのですか?」もちろん、ご質問の意味はわかっていますので、その都度、尋ねて来られた方に、自分自身の体験・自分に起こった出来事などを話し、楽器や音楽を始めた具体的なきっかけを説明するのですが…実は私は説明しながら、心の中では自分に対して質問をぶつけているのです。「本当のところは、何がどうなって、自分はこうなったんだろう?」「自分に起こってきたことは一体何だったんだろう?」「そして全ては…もともとは、どんなふうになっていたんだろう?」
『縁』
人や出来事に対して私たちが縁を感じる時というのは、自分の目の前で「何かと何かがつながったように見えた時」ですね。たとえば、出会った人や、体験した出来事が、自分の中の「何か」の事象と結びついたりした時、私たちは相手や出来事に対して縁を感じます。そして大抵の場合、その「縁を感じた時」が「その縁が始まった時」のように私たちは思っています。しかし、時間が経ってから、本当はそうではなかった…と気付かされた事が皆さんにもありませんか?「その縁は、ここからはじまった」と思っていた地点が、実は「自分がその縁に気づいた」地点であっただけで、本当はもっともっと前に、自分で気づいていなかった「その瞬間を導く沢山の出来事」があったのだ、というような…。それは、まるで「そうなる事を知っているものが、そうなるように準備し導いてきた」が如くです。
私たちは、人と人や、出来事と出来事、バラバラで起こっている事象などが「つながっていくさま」をこの世で目撃しているように感じ、そんな時「縁」を感じ、また「縁」という言葉を使っているのですが、実は「もともとつながっていた人やものごと」が、そのありのままの姿を取り戻し、また、そのありのままの姿を認識されていく過程を、我々は体験しているのではないでしょうか。
つまり、「次第につながっていくように見えていること」は「本来つながっていたこと」なのであり、縁とは「人や物事が出会ったり分かれたりすること」ではなく、「もともと、あらゆる事象がひとつにつながっているのだ、ということを我々に思い出させるように作用していくこと」なのではないでしょうか。私は、いつもそう思うのです。
『旅』
「音楽」や「笛」を、一つの大きなきっかけとして、私はこれまで様々なものごとに引っ張られてきました。引っ張られてきた…という表現が、とてもピッタリな気がします。一つ一つのものごとに不思議な縁を感じながら、いつか種明かしがされる日が来るんだろうなぁ、と思いながら、音楽を続けてきました。
「一体何が自分を引っ張っているのだろう」「一体自分はどこに導かれているのだろう」考えてみれば、日常の体験は全て、いつか種明かしされるであろう「クイズ」の、第一ヒント・第二ヒント… といったようなものなのかも知れません。そんなふうにして、人生のひとつひとつの出来事を「ナゾナゾ気分」で体験して楽しめたらいいですね。
私は日頃、「ここではないどこかへの旅」というものを特別したい、と思っているわけではないのです。
この世に生まれてきたことも旅といえば旅ですし、「今ここに来ていること」も前々から計画していた旅かも知れないからです。自分の住んでる街や通りを、そんな風に考えて、時折「旅気分」で歩いています。外国人のような目で、宇宙人のような目で、初めてここにやって来た人のような目で、目に入る風景や建物、通りや人々を見ると、それらは新鮮な驚きをもたらしてくれますし、日頃いかに自分が、今いる場所を見つめていないかがわかります。本当は、どこにいても世界は驚きをもたらしてくれるものなんでしょう…そうはいっても、やっぱり遠いところや言葉が違うところに行くと、そのような体験は、更に大きなものになりますね。もちろん、お金がかかることが難点ですが!