とみしゅう日記

お返事に代えて

先日書いた「まとまりませんが、そのままで」という記事に対して、
葉月さんからコメントをいただきました。

今回は、そのお返事を記事にします。
…というのも、ひどく長い文章になってしまいそうなので。

>会話は双方向性のものだから、
>やっぱり相手の気持ちを尊重しないと、
>後でしっぺ返しを受けることがありますね。
>「こういうつもりで言った」
>「そんなつもりは無い」
>と言ったとしても、受け手である相手が決めること。

僕らは、「自分」の姿を肉眼で見ることは一生できません。
鏡やビデオカメラなど、
なんらかのインターフェースを通じて観察することは可能ですが、
「他人」として自分に接することは不可能です。

ちなみに、鏡に映った姿は、なぜ左右対称になるのでしょう?
実は、非常に複雑な「脳のメカニズム」に由来しているのだと、
以前に聞いたことがあります。
(詳しいことをご存知のかたは、ぜひご教授ください)

ともあれ、自分の姿を自分で見ることができない以上、
何をもって「自分の正しい姿」とするかは、
非常にやっかいな問題であるといえます。

極端に言ってしまえば、僕の友人が100人いるとすれば、
100とおりの「とみしゅう」像が存在するのでしょうね。
それはいずれも正しくて、いずれも間違っているといえます。
もっと言ってしまえば、
「そう見てほしい姿」と「そう見てほしくない姿」が、
その100の像の中に紛れ込んでいるわけです。

僕は、基本的に自己評価が低いのですが、
そんな自分を好きだと言ってくれた
「かつての恋人たち」や友人たちに失礼だ、
と思うようになってから、
「ま、でもそんなに悪くはないのかな」
くらいには持ち直しています。

基本的に「自己評価」というやつを信用していないので、
(そんなことを聞くくらいなら、
その人が語る友人紹介とか、事件に対する感想とか、
そういうことを聞いたほうが、
よほど「実がある」と思っています)
友人たちが語る「とみしゅう像」を、
どれだけ自分の内に取り込めるかが大切かな、
と思っています。

厳密に言えば、いったん取り込んでからの
「取捨選択」になるでしょうか。

どうしようもない罵詈雑言のたぐいはさておくとして、
自分に対する真摯な評価(批評)は、
たとえ耳が痛いものであっても、いったんは受け止めてみる。

その上で、「いや、それでも自分はこうする」と決めたのであれば、
同様に真摯な態度を持って、相手に伝えるべきでしょう。
その人が、自分にとって「大切な存在」ならなおさら。

そうは言っても、
ある言葉を聞く「前」と聞いた「後」では、
世界が変わってしまうということはままあります。

ホラー映画を得意とする黒沢清監督が、
たしかそういうことを言っていました。
ある決定的な事件が起こってしまって、
失われてしまった「何か」を描きたい、
というようなことを。

口は災いの元。
信頼を失うのはたやすいが、築くのは難しい。
理屈では判っていても、
自分の行いによって失われていった絆は、
今までにたくさんありました。

>時間が経って考えると
>「私の気持ちを思いやって」
>彼は発言したのだろうな、とは思います。
>その「思いやり」の気持ちは理解できるのです。
>でも、やはり彼の発言には
>”彼の日頃の考えが詰まっているのだろう”
>と考えてしまう自分がいる。
>何となく元の鞘?に納まっても、
>その想いはどこかに残るような気がします。

同じようなことを以前にも言われているのに、
なぜかその日に限って「癇に障る」ということを、
何度か経験しています。

周囲の人間は、さぞ面食らったことでしょうね。
「いつも言ってることなのに」と。

なんともわがままな理屈であることに、
間違いはありません。

と同時に、
それが自分の「感じたまま」であることにも、
違いはないわけです。

そういう場合、以前は自分の胸のうちにしまい込んで、
傷が癒えるのをただ待つだけでした。

でも、今は率直に
「今の言い方には傷ついた」
ということを言うようにしています。

その場で言わなくても、誰かの口を通じて、
「あの人がこう言っていたよ」
と自分の考えが伝わってしまうことが、
日常でもよくあります。

それは、ちょっと嫌だなぁと思うわけです。

結局のところ、相手に「誤解」されるのだとしても、
自分の口を通じた言葉による誤解であれば、
自分の未熟さであったと納得もできます。
でも、誰かの口を通じた「自分の」言葉に対して、
責任を取れるかどうかは自信がありません。

決定的な瑕疵がすでに発生してしまっているのだとしても、
やはりその終焉には、自分が立っていたいと思うのです。

言葉は「枠」であると、僕は考えています。
思いという目に見えないものに、輪郭を与えていく。
そうしてできあがった何らかの「形」は、
しかしその実体を表しているかどうか、
はなはだ疑問です。
(もちろん、言葉以外にも、
さまざまな「枠」が存在します)

それでも、
僕らはそうやって「縁取り」をしていくことでしか、
思いの形を捉えることができない。
言葉なんてなくなってしまったほうが、
あるいは僕らは自由になれるのかもしれない。

それでも、その制限の中で、
ひどく細くて狭い道を通じて、
僕らは誰かと出会い、誰かを愛し、
これからも生きていくのでしょう。

今回も、まったくもって取り留めのない話に
終始してしまいました。
もはや「お返事」とは呼べませんね…

でも、葉月さん、ありがとうございました。
あなたのおかげで、いろいろなことを考え、学ぶことができました。

今後も、ブログを通じて、
互いの人生にとって「ステキな何か」を見つけられるといいですね。

コメント一覧

とみしゅう
わーい O(≧▽≦)O
ステキなチョコをありがとうございます。

バレンタインにチョコを渡す習慣は、
業者主体で始まったと聞きます。
でも、ちょっぴり苦くて、ちょっぴり甘いチョコは、
確かに僕らの思いを象徴しているかもしれませんね。

さて、ホワイトデーのお返しはどうしましょ…
葉月
感謝
とみしゅうさん、本当にありがとうございます。

会話って、どうしても表面的なことに終始してしまいがちで
今回のように「掘り下げて」互いの意見(感想)を冷静に伝え合うということは難しいものです。
メールも即時的ですしね。

昔は友人にも恋人にも家族にも
手紙で気持ちを伝えることが多かったのですよね。
時間がかかる分、丁寧に考えることが出来ました。

とみしゅうさんとは、お会いしたことも言葉を交わしたことも無いのに、
ブログ上で、ちょっと手紙に似た交流をすることで
本当にたくさんのことを考えるきっかけをいただきました。
わたくしこそ、ありがとうございました。


今日はバレンタインデーですね。
感謝の気持ちを添えて
大きなハートのチョコをプレゼントしたつもり^^
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